クラレンス・A・ペリーの近隣住区論とグリーンベルト、千里ニュータウン

近隣住区はニュータウン計画についての本を読んだり、講演を聴いたりすると必ずと言っていいほど出てくる概念です。アメリカにおいて、クラレンス・A・ペリーによって提案されたもので、次のような考え方です。

近隣住区の単位は幹線道路で囲まれており、約64ha(半径400m程)、人口は5,000〜6,000人程度を想定する。この範囲内にコミュニティを支える小学校、教会、コミュニティセンター、公園などを置き、幹線道路沿いに商店などを配置する。通過交通が住区内に入り込み、スピードを出すのを防ぐため、わざと道路を曲げたり、見通しを悪くする。住民の日常生活は歩行可能な住区の範囲内で完結させることができる。
計画的に造られた人間的なスケールの都市空間を目指したもので、都市の匿名性・相互の無関心といった弊害を地域コミュニティの育成により克服しようとするものである。
*Wikipediaの「近隣住区」の項より。

ニュージャージーのラドバーン(Radburn)の計画においては、ペリーが発表した近隣住区論を取り入れられましたが、1933年、大恐慌の影響を受け、ラドバーン開発を行なっていた住宅供給公社(The City Housing Corporation)が倒産。ラドバーンは当初の計画を完全には具現化することはできませんでしたが、ペリーの近隣住区論は世界中に広まっていくことになります。
近隣住区論−新しいコミュニティ計画のために』の訳者・倉田和四生氏は、解説において次のようなことを書かれています。

ラドバーン計画の挫折以来、アメリカ合衆国においては近隣住区のアイディアはピッツバーグのキャサム・ビレッジ、ヒルサイド・ホームズ、ボールドウィン・ヒルズ・ビレッジなどにも活かされたが、特にメリーランドのグリーンベルトにおいて注意深く適用された。このように各方面で利用されて来たが、全体として厳密に適用されることは少なかった。しかし1966年からバルチモアとワシントンD.C.の中間の地域に着手されたコロンビア・ニュータウンは近隣住区理論を厳密に適用した開発として知られている。
*倉田和四生「解説 近隣住区理論の形成と発展」・クラレンス・A・ペリー(倉田和四生訳)『近隣住区論』鹿島出版会 1975年

アメリカのグリーンベルトの名前があげられていることがわかります。
倉田氏の解説の内容は、この後、イギリスへ移り、その後、千里ニュータウンの名前が登場します。

ハワードの田園都市には住区の考えはみられないが、ペリーの近隣住区論は、英国のリバプール大学のW.ドウギル、E.G.S.エリオット教授等によって温かく受け入れられた(1934年)。その後、1944年のアーバークロンビーの大ロンドン計画には住区構想(6,000人〜10,000人)がみられる。イギリスのニュータウンは、程度の差はあれ、ほとんど近隣住区から構成されているが、ことのほか、このハーロウ計画がペリーの近隣住区計画を厳密に適用してつくられたものであることはよく知られている。

日本で最初の大規模ニュータウンとして昭和36年に着手された千里ニュータウンは英国のニュータウン、ことに前述のハーロウに範をとったものであるから、近隣住区の構成を厳密に実施している。
*倉田和四生「解説 近隣住区理論の形成と発展」・クラレンス・A・ペリー(倉田和四生訳)『近隣住区論』鹿島出版会 1975年

倉田氏の解説において、グリーンベルトと千里ニュータウンの名前が同時に登場している。2つの街にはこういう繋がりもあったのだと改めて気づかされました。
アメリカで生まれた近隣住区論は、イギリスへ渡り、イギリスから千里ニュータウンに伝わった。こういう意味で、千里ニュータウンはグリーンベルトから直接影響を受けているわけではありませんが、近隣住区論の思想を受け継いだ街として、まさしくグリーンベルトと千里ニュータウンとは姉妹都市だと言えます。

千里ニュータウンでは、○○橋が多いことからわかるように、歩道が幹線道路の上にあります。
逆に、グリーンベルトでは写真のように歩道が幹線道路の下を通っています。

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このように見てくると、千里ニュータウンも確かに世界のニュータウンの流れに位置づけられることがわかります。その意味で、千里ニュータウンの計画・開発に携わられた方々の話を記録しておくこと、千里ニュータウンでの暮らしの歴史を記録していくことは、決して大袈裟ではなく、世界的な意味があることだと思います。

(更新:2015年6月3日)