『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

千里ニュータウンまちびらき当初の高齢の方々

千里ニュータウンでは、クラレンス・A・ペリーが提唱した近隣住区論の考え方に基づき、小学校区をまとまりとして12の住区が作られました。中学校は2つの住区に1校計画されました。また、それぞれの住区には幼稚園・保育園も開園しました。

千里ニュータウンの計画の経緯を追っていると、小学校、中学校、幼稚園、保育園など子どもの話はたくさん出てきます。その一方で、高齢の方の話はあまり出てきません。

先日の記事で、千里ニュータウンは若い夫婦と子どもたち「だけ」の街ではなかったと書きましたが、まちびらきから比較的早い時期に、高齢者のためのグループや場所が誕生していることがわかってきました。

例えば、各住区で老人クラブが結成されています。

佐竹台通信NET版によると、最初に入居が始まった佐竹台では、現在「きらく会」(佐竹台1丁目)、「第一百睦会」(佐竹台2丁目)、「第二百睦会」(佐竹台3〜6丁目)の3つの老人会が活動していると紹介されていますが、佐竹台で初めて老人クラブが結成されたのは、1965年(昭和40年)5月16日、まちびらきから僅か2年8ヶ月後のことです。名前を「百睦会」と言いました。

かねてダイハク・クラブ(会長N氏)の人たちの肝入りで佐竹台老人クラブ結成を急いでいたが去る十六日、佐竹台幼稚園でその結成式が挙行された。
同住区には約八十五名の老人(六十五歳以上)が在住されているが当日二十三名が出席、会の名称も百睦会と名付けられて発足した。
*「喜びも悲しみも「百睦会」で共に−佐竹台老人クラブ結成−」・『千里山タイムス』第66号 昭和40年5月23日
*記事には実名が記載されていますが、ここでは性の頭文字のアルファベットを記載しています。

佐竹台には好日荘千里老人文化センターがありますが、好日荘も1969年(昭和44年)6月、まちびらきから6年9ヶ月後に開館しています。

好日荘の名は当時の佐藤義詮大阪府知事によって命名されたものです。

津雲台老人クラブの人たちが念願していた千里ニュータウン地区の老人センターが津雲台住区自治会の有志の骨おりで、いよいよ、2月27日には老人の家建設の起工式がおこなわれる。
この“老人の家”が建設される運びになった動機は昨年8月、津雲台六丁目のSさんが地区の老人たちが「みんなで集まって話をしたり、遊んだりする場所がほしい」と訴えていることを知り、私財一千万円を投げだし、地元市会議員であり、住区自治会連合会代表のM氏に「憩の家」建設用地の入手等に協力を依頼してその実現を見たものである。
用地の払下げを要請された府企業局は、老人の家は但、津雲台住区のご老人だけでなく、千里ニュータウン全域の老人たちにも開放してほしいとの希望を付帯条件に佐竹台一丁目の土地千二百平方米を提供した。
*「老人の家「好日荘」2月27日に起工式 名付親は佐藤知事」・『千里タイムズ』第199号 昭和44年2月14日
*記事には実名が記載されていますが、ここでは性の頭文字のアルファベットを記載しています。

ニュータウンというと、隅々まで計画された隙間のない街であり、ピカピカの「完成品」としての街だった。そのような街を与えられた人々は、ただ消費活動をしているだけだった。
ニュータウンに対してそのようなイメージをお持ちの方もおられるかもしれません。

しかし、ここでご紹介したように千里ニュータウンでは、老人クラブをはじめとする様々な団体が結成されたり、私財を投じて場所を作るという動きもありました。

千里ニュータウンは最初から「完成品」としての街だったわけではありません。人々の声を反映して、少しずつ作りあげられていった(作り続けられている)という側面をもつ街でもあります。

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