『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

ひがしまち街角広場、主客の関係が固定的でない場所

千里ニュータウンの「ひがしまち街角広場」はボランティアスタッフによって日々の運営が担われていますが、ボランティアスタッフと来訪者とが同じテーブルに座って話しをしたり、来訪者が片付けを手伝ったりする光景をよく見かけます。このように主客の関係が固定的でないことは、「ひがしまち街角広場」の雰囲気を決める大きな要因になっていると感じます。

特定の人だけがサービスを提供する役割を担い、他の人はそのサービスを享受するお客さんになるのではなく、全ての人が地域で何らかの役割を担う当事者になること。この重要性が指摘されていますが、主客の関係が固定的でない場所では、全ての人が何らかの役割を担える可能性があります。

主客の関係を固定的にしないこと。言葉で言うのは簡単ですが、これを実現するのはなかなか難しいのだと思います。
まちの居場所の運営では、ついつい特定の人だけがサービスを提供しがちになったり、サービスが過剰になってしまうことがある。悪気ではなく、善意からそうした状態になってしまうところに難しさがあります。

なぜ、「ひがしまち街角広場」では主客の関係を固定的にしないことが、自然に行われている(ように見える)のか?

現在、代表をつとめている方に伺ったところ、「来訪者も含めて若いときに子育てを一緒にやってきた仲間で、これまで一緒にコミュニティを作ってきたという意識があるので、それが基本になってると思います」、千里ニュータウンではまち開き以来「自治会を立ち上げたりすることも含めて、何でも自分たちでやってきたので。自主的にやろうっていう気持ちが育ってると思います」という話でした。
同じ世代の人が一斉に入居したニュータウンという場所で、半世紀にわたって町を作り、暮らしを共有してきた人々がいるからこそ、今の「ひがしまち街角広場」は成立している。この意味で、まちの居場所は地域とは無関係には成立し得ません。

その反面、途中から新千里東町に越して来た人、他の地域に住む人、そして、世代が異なる人など暮らしを共有していない人にとって、「ひがしまち街角広場」には関わりにくいということになります。そして実際に、常連ばかりで入りにくいという意見があることも確かです。

ただし、「ひがしまち街角広場」を見ると男性の来訪者もいますし、新千里東町以外からやって来ている人もいます。途中から新千里東町に越して来た人もいますし、若い世代の人が全くやって来ないわけではありません。こうした人々がなぜ「ひがしまち街角広場」に来るのか、その雰囲気をどうやって共有してきたのか。これを丁寧に見ていくことが、まず必要な作業になりそうです。

半世紀前に人工的に作られた千里ニュータウン。その千里ニュータウン内の1住区で生まれた「ひがしまち街角広場」。千里ニュータウンという町の、「ひがしまち街角広場」という場所の良い部分を次の世代へと継承することは大きな課題ですが、自然のままにしておくと継承されにくいとすれば… 何らかの(人口的な)働きかけをすることによって、人工的な町は普通の町に近づくのかもしれません。

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