『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

日本の居場所と北欧に共通するもの

フィンランド・ヘルシンキの様子

2015年12月12日(土)、日本建築学会の環境行動研究小委員会主催で、シンポジウム「変わりゆく北欧社会において継承されているもの〜社会システムと場所の質からよみとく北欧の「ふつう」の生活 その2〜」が開催されました。
北欧というと福祉の国というイメージがありますが、現在の北欧はEU加盟などによって大きな変化を迎えている。そうした変化を受けながらも、北欧では変わらずに継承されているものがある。それは何かを探るというのが今回のシンポジウムの目的です。

シンポジウムではフィンランドの図書館の新たな試み、精神科医療環境、スウェーデンの団地のリノベーションと住民活動について紹介していただきました。国も対象も異なっていましたが、共通して議論になった点として、日本と北欧では「公と私」の関係が違うという点。日本では公と私が対立するものとして捉えられがちだが、北欧では「公と私」は対立するものでなく、一人ひとりが公を支える主体であると同時に、公はそのような自立した人を育てたり支えたりする役割を持っている。
「公と私」の関係のあり方という点に関連して、日本では行政の対応から漏れ落ちた部分、制度と制度の隙間で面白い動きが生まれているが、北欧ではそもそも制度と制度の隙間は存在しないという話をしてくださった方がいます。北欧では行政が行うべき役割について厳格な基準がない。行政は直面した課題に柔軟に対応していくので、行政の対応から漏れ落ちる部分というのは生じないのという話でした。

一方、日本で近年開かれている「まちの居場所」は、制度と制度の隙間にある人々をサポートしたり、従来の施設が実現できなかったような役割を担っており、(北欧とは異なる)日本ならではの動きだと捉えることができそうです。
けれども、先日のシンポジウムを聞いていると、北欧と「まちの居場所」とはいくつかの共通点があると感じました。
1点目は、北欧は非常に合理的な社会だということ。まず、あるやり方でやってみて、それが上手くいなかければ改めるというようにトライ・アンド・エラーを許容する柔軟性があり、結果として合理的な社会の運営が可能になっているという点です。この点は、まさに「まちの居場所」の運営スタイルでもあります。
もう1点は、トライ・アンド・エラーが許容されるのは、目指すべき理念が国民によって許容されているかということ。目指すべき理念が共有されているからこそ、そこに至までの手順は柔軟であることができる。この点についても、例えば岩手県大船渡市の「居場所ハウス」には運営の8理念があります(地域住民が作ったのではなく、米国ワシントンDCのIbashoによる理念ということで、海外からの働きかけで生まれた被災地の場所という得意な状況があるとは思います)。また、「居場所ハウス」のように明確な言葉としては掲げられていなくても、「まちの居場所」では確固とした運営ポリシーを持っている方にお会いすることがあります。理念やポリシーによって、「ここをどのような場所にしたいか」が把握されているから、日々の運営においても「こういう対応をする」「こういう対応はしない」というように、その都度の状況に応じた対応ができるのだと思います。
先日のシンポジウムでは、「まちの居場所」と北欧に共通するものは多いと感じました。

もう10年前のことになりますが、「まちの居場所」の運営に関わる方にお集まりいただいて座談会を開催したことがあります(「座談会 公共の場の構築:住民の手による場所づくりの試みから見えてくるもの」・『建築雑誌』2005年5月号)。
座談会では次のような発言がありました。

「児童館とか、子どもの遊び場とか、フリースペースという言葉は、入ってくるのに何か制限されている響きがありますよね。それから、私一人きりで子どもを抱えるのではなくて、ここに来る大人の人たちにも子どもを見てもらいたい、そうすると喫茶店がいいかなと。喫茶店っていえば、子ども以外は誰でも入れますよね。だから「子どもも入れる喫茶店」にしたのです。」
*東京都江戸川区の「親と子の談話室・とぽす」についての発言

「いろいろ先進的なもの〔公共施設〕はありますが、それを使いこなせない。・・・・・・。「街角広場」はそうではなくて、一から十までありあわせを集めてこしらえたような場所ですから、もうそれこそ、スプーン1本、箸1本、全部持ち寄りのありあわせです。「街角広場」にあるもので買ったものは、今度できたカウンターだけですよ。自分たちの家で余っているものをそれぞれが持ってきているから、自分たちの身の丈に合ったものばかりなのです。だからそれを上手く使いこなせたのだと思います。特別に勉強してやっているわけでもない、ほんとうに普段着の生活、普段着のままで生活をしている。その普段着同士の付き合い、フラットなつきあい、それがいいと思うのです。」
*大阪府豊中市の「ひがしまち街角広場」についての発言

「「ヤングプラザ」は完成してすぐ1月30日にオープンしました。それも上司から、「年度を待って4月から年度オープンというよりも、とにかく完成したんだからまずは使ってもらって、それから考えてったらいいんじゃないか」と言われたためです。備品なども、最初のころは公民館の長机をもらってきて、それに白いシーツをかけてオープニングをやったりとか、徐々に徐々にという感じでした。」
*千葉県佐倉市の「佐倉市ヤングプラザ」についての発言

久しぶりの読み返した座談会ですが、これらは先日のシンポジウムで、北欧の方の発言として出てきても違和感がないと思えます。

日本において「まちの居場所」は草の根の動きとして生まれてきたものですが、それは決して制度と制度の隙間を補完するものではありません。
「まちの居場所」の運営においては様々な課題があることは事実ですが、それでも「まちの居場所」は豊かな暮らしを実現するため、現在の暮らしのあり方を根本から変えようとする可能性を秘めているのだと思います。

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