『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

居場所ハウスから見えてくる居場所の可能性

先日、地域開発に関する研究会が行われ、大船渡の「居場所ハウス」についても議題に取り上げられました。研究会での議論を聞いていて、次のようなことを感じました。

○「居場所ハウス」は空間的な近接性が意味を持っている
「居場所ハウス」の運営に協力している人は、「居場所ハウス」の近くに住んでいる人が多い傾向があります。これは、「居場所ハウス」の近くに元々、地域の活動に積極的な人が集まって住んでいたというわけではないと思います。そうではなく、家の近くにあるという理由で、「居場所ハウス」に顔を出しているうちに、運営に関わるようになったというのが事実だと思います。
これは、「居場所ハウス」のような場所がもつ可能性だと言えます。つまり、(最初から地域の活動に積極的な人でなくても)家の近くにあるという近接性が、地域の活動に関わるきっかけになるということ。様々なメディア、ツールが発達し、対面しなくてもコミュニケーションのやりとりができるようになった現在においても、「家の近くにあるから」という意味での空間の力をあなどることはできません。

○今までとは違うレイヤーで地域の人々の関係が生み出されている
研究会では、地域の人間関係というのは必ずしもよい側面ばかりではないという意見が出されました。地域を問わず、国内外を問わずこの指摘は正しいのだと思います。そして、「居場所ハウス」ができたことで、それまでに地域で築かれていた(時には煩わしくもある)人間関係の問題が解決されたわけでもないと思います。
「居場所ハウス」が地域とどう関わっているかと考えると、朝市で買い物をしたり食事をしたりできる場所となることで、目的がなくても気軽に立ち寄れる場所となることで、これまで地域で築かれてきた人間関係とは別のレイヤーで、人々が関係を築くきっかけになっているということだと言えそうです。

○建物のデザインはオープンまでにだけ行われるものではない
研究会では、「居場所ハウス」のような地域の場所の建物のデザインは誰が行うのが好ましいのかという議論もなされました。ただし、地域住民が建物のデザインのプロセスに主体的に参加するのが重要だと言っても、専門家が不要になるわけでもありません。また、あらかじめ使い方を考えてから建物をデザインするのが好ましいと言っても、実際に建物が完成しないと使い方が思いつかないのも事実です。
「居場所ハウス」では柱を撤去したり、勝手口を設置したり、屋外にキッチンを増築したりしてきました。しかし、これを建物をデザインする段階で、使い方を想定仕切れなかったデザインの失敗として捉えるという考えから解放される必要があると思います。建物デザインとは決してオープンまでだけに行われるものではなく、オープン後も緩やかに建物が変化していくことも含めて、建物のデザインだということです(通常の建設行為においてデザイン(設計)の失敗が問われるのは、設計段階と利用段階が分離されており、それに伴い責任の所在も分離されてしまっているという社会の仕組みのあり方に起因する側面もあると思います)。
オープン当初、「居場所ハウス」では地域の人々から設計者に対する不満が出ていました。しかし、上に書いたような改修をしていく中で、設計者に対する不満ではなく、使いにくい部分があれば自分たちで改修していくという話がなされるようになってきたように思います。自分たちが手を加えた結果が、建物の緩やかな変化として目に見えるかたちで蓄積されることで、地域の人々は「ここは自分たちの場所だ」という意識を抱くようになるのだと思います。

○地域におけるお金の流れを積極的なものとして捉える
研究会では市場・政府・コミュニティ(ソーシャル・キャピタル)は対立するものではなく、3者の補完を考えていくことが、今後の社会において重要だという指摘がなされました。この話を聞いて、「居場所ハウス」の朝市や食堂は、市場とコミュニティを補完する仕組みだと感じました。朝市や食堂は、地域交流を最初から意識しなくても「居場所ハウス」に来るための名分となり、それが結果として幅広い人々の関係を築くことにつながっていくのだと。いつも地域交流を意識する必要がある場所は、ある意味でハードルが高いと言えます。そういう時に、お金が媒介となることで、そのハードルを下げることができ、それは同時に地域で生業を生むことにもつながっていく。
地域交流を目的とする公共施設では営業行為が禁止されているのに対して、2000年頃から各地に開かれているまちの居場所はお店(カフェ)という形態で運営されており、そこでささやかではあってもお金の流れが生まれている。このことの意味を改めて考えていました。

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