場所の主(あるじ)

1.対話と会話

何人かがおしゃべりしているところに、たまたま居合わせたような感じ。ちょっとしたきっかけがあれば、自分もそのおしゃべりの輪の中に加わっていけるような感じ。平田オリザの演劇を観ると、このような感じを抱く。
現代演劇の役割は「私に見えている世界を、ありのままに記述すること」*1)。こう述べる平田は、人々の関わりが生まれる場所や状況を丁寧に描くことで台詞のリアルさを追求する。平田は台詞を「お互いに相手のことをよく知らない、未知の人物」と交わす「新たな情報交換や交流」としての「対話」と、「家族、職場、学校での、いわゆる「日常会話」」のように「すでに知り合っている者同士の楽しいお喋り」としての「会話」と分類し、観客に演劇についての有効な情報を伝えるためには、「対話」を用いる必要があると述べる。
平田の演劇を観て上のような印象を抱くのは、「対話」が生まれる場所や状況が丁寧に描かれているからだと思われる。

2.セミパブリックな空間

都市や地域には新たな人と知り合い、関係を築いていけるような場所が少ない。従って、今求められているのは「お互いに相手のことをよく知らない、未知の人物」との「対話」はどのような場所で生まれるのかについての考察である。これを考えていくうえで、平田による空間の分類が非常に参考になる。
平田は、空間を「プライベートな空間」、「セミパブリックな空間」、「パブリックな空間」の3つに分類したうえで、「プライベートな空間」と「パブリックな空間」では「会話」が成り立ちにくいと述べる。なぜなら、家の茶の間のような「プライベートな空間」には、通常はお互いに知っている者同士しか居ないため、そこで買わされるのは「会話」であり、「道路や広場といったパブリックな空間」では「ただ人々はその場所を通り過ぎるだけだから、会話自体が成り立ちにくくなる」からである*2)。
そこで、平田はリアルな台詞によって「対話」を成立させるための演劇の舞台として「セミパブリックな空間」を設定する。「セミパブリックな空間」とは、美術館のロビーや大学の研究室、サナトリウムの面会室のように、物語を構成する主要な人々がいて、その内部の人々に対して外部の人々が出入り自由な空間である。

3.地域におけるささやかなふれあい

かつて、ジェイン・ジェイコブズは都市街路における「ささやかなふれあい」について、次のように述べた。

「都市街路の信頼は、街頭で交わす数多くのささやかなふれあいにより時間をかけて形づくられています。ビールを一杯飲みに酒場に立ち寄ったり、雑貨店主から忠告をもらって新聞売店の男に忠告してやったり、パン屋で他の客と意見交換したり、玄関口でソーダ水を飲む少年二人に会釈したり、夕食ができるのを待ちながら女の子たちに目を配ったり、子供たちを叱ったり、金物屋の世間話を聞いたり、薬剤師から一ドル借りたり、生まれたばかりの赤ん坊を褒めたり、コートの色褪せに同情したりすることから生まれるのです。慣習はさまざまです。飼い犬についての情報交換をする近隣や、家主についての情報交換をする近隣もあります。」*文2)

自身の経験を振り返ると、「ささやかなふれあい」の相手となる顔見知りの人として、喫茶店のマスター、駅前にある自転車置き場のおばさん、畑仕事をしている近所のおじさんの顔が思い浮かぶが、このような人と顔を合わせる場所である喫茶店、駅前の自転車置き場、畑の脇の道には「セミパブリックな空間」という共通点があることに気づく。平田がいうように、「セミパブリックな空間」においては、相手のことをよく知らない他者との関わり、つまり「対話」が生まれやすいのである。

携帯電話や電子メール等の普及によって、空間的に離れていたとしても親しい人と連絡を取り合い、思いを伝え合うことは格段に容易になった。けれども、それほど親しくはない顔見知りの人とは、特別な用事がない限り、携帯電話や電子メールを使ってやりとりすることはない。つまり、情報技術が進歩した現在においてもなお、ジェイコブズのいう「ささやかなふれあい」は、場所とセットで生まれることが多い。そのような場所の代表が「セミパブリックな空間」である。
ここで、上にあげたマスターやおばさん、おじさんのような「セミパブリックな空間」における「内部の人々」のことを「主(あるじ)」と呼びたい。「主」とはその場所に(いつも)居て、その場所を大切に思い、その場所(の運営)において何らかの役割を担っている人であり、その場所とセットでしか語り得ない人である。

4.場所の主(あるじ)

「まちの居場所」にも「主」は存在する。いや、「まちの居場所」は「主」とセットでしか語り得ないと言った方がよい。「主」である彼女ら/彼らは、地域での生活を通して抱くようになった「こんな場所があったらいいのにな」という思いをきっかけとして「まちの居場所」を開き、確固たるポリシーによってそこをしつらえ、運営している。やって来た人々に対しては常に目を配り、一緒になっておしゃべりすることもあれば、遠くから見守っていることもある。やって来た人々同士の関係を媒介することもある。
「まちの居場所」の「主」の言葉には多くの共通点があることに気づく。「ひがしまち街角広場」代表の赤井直さんと、「親と子の談話室・とぽす」の白根良子さんは次のように話す。

赤井直さん
よく言われるのは、「あなたがいてたからこれはできたのよ」っていうこと。でも私がいなくても、他の人がやっても違ったかたちでできて、持続していけると思うから、その人はその人流のやり方をすればいいんだから、「街角広場」と同じものがコピーみたいにできなくていいと思うんです。

白根良子さん
誰にでもできると思うのね、やりたい気持ちがあれば。だけど、その人なりのものしかできないんですよね。できないって言うとおかしいけど、その人だからできるものっていうのが、それぞれにあると思います。

「主」なりのやり方で「まちの居場所」を作りあげていくこと。けれども、本書読んでいただくとわかる通り、「主」は彼女ら/彼らのやり方を、やってくる人々に対して一方的に押しつけているわけではない。それどころか、「まちの居場所」ではやって来た人々の思いが受けとめられ、運営に反映されているというように、非常に柔軟な運営がなされている。そうすると、「まちの居場所」が歩んでいく方向を決めているのは、やって来た人々だと見なすこともできる。ここに見られる主と客との入れ替わり。ルネ・シェレールによれば、これこそがもてなし、歓待などと訳されるホスピタリティの本質である。
「歓待の本質は、客をもてなす主の側には求められない。歓待の本質はあくまでも、やってくる客をめぐって規定される。」*文3)
再び赤井さん、白根さん、そして、「ふれあいリビング・下新庄さくら園」の代表・和南治子さんの言葉をみたい。

赤井直さん
場所づくりしたところで、こちらの押し付けがあったらだめなんですよね。だから、はっきり言えば来る人がつくっていく、来る人のニーズに合ったものをつくっていく。こちらの押し付けはね、やっぱり無理なところがあると思いますね。

白根良子さん
ここは喫茶店なので人との出会いがその流れをつくっていっているんですよ。人との出会いがつくっていってるので、「ちょっと待って」とは絶対私は言えない。「そういう要求ならそれもやりましょうね」っていうかたちで、だんだん渦巻きが広くなっちゃうって言うかな。・・・・・・。だから、人がここを動かしていって、変容させていって、しかも悪く変容させていくんじゃなくて、いいように変えていってくれてると思ってます。

和南治子さん
ふれあいをやりながらしていってる、幅がどんどん広がってる感じで、まぁ、それはいいことだなぁと思って。こっちから何かしなくてもね、受けながら受けながらやっていったらねぇ、なんぼでもあると思うよ。

いずれの言葉もホスピタリティの本質を衝いている。

5.しつらえとしてのホスピタリティ

「まちの居場所」に「主」の存在は欠かすことができない。それと同時に、「主」はやって来た人々との出会いによって変えられていく非常に柔らかな存在でもある。このような「主」が、私たちの周りにたくさんいてくれたら素敵なことだと思うが、「主」はあらかじめ計画して生み出すことはできそうにない。その証拠に、本書で紹介した「まちの居場所」に建築計画の専門家が関わっている事例は少ない。「まちの居場所」について建築計画は無力なのだろうか。
ホスピタリティについて、山本哲士は次のように興味深い指摘をしている。

「・・・・・・、ホスピタリティは「もてなし」ではない、むしろ《しつらえ》である。人と人との関係が成立しうるために、場を〈しつらえる〉のだ。モノによって雰囲気によって、言葉にならぬものによって《しつらえ》がなされる。つまり、人とモノと場所とが非分離になる環境がしつらえられることである。」*文4)

ある環境から、人、モノ、場所を個別に切り出してくるのではなく、人、モノ、場所が非分離になったものとして環境を捉えること。そのように環境を捉えることは、建築に関わる者が得意とするところである。「まちの居場所」は教育、医療、福祉など様々な分野に関わりがあるが、もしも建築計画が「まちの居場所」に寄与できるとすれば、モノや場所から人々の関係を切り出してくるのではなく、それらの総体としての環境を丁寧に描くことを通してだと思われる。地域の人々自らが当事者となって「まちの居場所」を次々に開いている現在、建築計画にはそのような役割も求められると考えている。

  • 1)平田の記述は文献1から引用した。
  • 2)「プライベートな空間」や「パブリックな空間」においても、ある背景や状況によっては「対話」は成立する。このような背景や状況を平田は「セミパブリックな時間」と呼ぶ。

参考文献


*この記事は日本建築学会編『まちの居場所』(東洋書店 2010年)の「場所の主(あるじ)」に一部加筆したものです。