中間的な関係(親密ではないが全くの他人でもない関係)についてのメモ

親密ではない他者との関係に対する問題提起

好ましい人間関係をいう場合、しばしば想定されるのは親密な関係。けれども、人間関係は必ずしも親密さだけで評価される訳ではありません。

土井(2004)は現在の若者たちの人間関係について、「親密圏にいる人間に対しては、関係の重さに疲弊するほど高度に気を遣って、お互いに「装った自分の表現」をしあっている」が、「公共圏にいる人間に対しては、匿名的な関係さえ成立しないほどにまったくの無関心で、一方的に「素の自分の表出」をしているだけ」になっていると指摘。宮台(1997)は「人目を気にせぬ傍若無人な若者たちの振る舞い」の背後にある感受性を「仲間以外はみな風景」と表現しています。
山崎(2003)は「互いに中間的な距離を保ち、いわば付かず離れずの関係を維持することが期待されている」関係を「社交」と呼び、現代では「一方に都市の無関心の砂漠が広がり、他方に無数の小市民の排他的な家庭が貝のように閉じている」が「両者の中間に社交というもう一つの関わりかたがあり、それを命を賭するに値するものだということを人びとが忘れ去って久しい」と述べています。

これらは親密な関係にある他者とは関わりをもとうとするが、それ以外の他者とは全く関わりをもとうとしない状態の問題点を指摘するものです。親密な関係にない他者との関わることの意味については、次のような指摘も見られます。

セネット(1991)は「あらゆる種類の社会関係は、それが個々の人間の内的な心理的関心に近づけば近づくほど真実で、信頼でき、真正なものである」という「親密さのイデオロギー」が支配的になれば、「人々が近づけば近づくほど、人々の関係はより社交性の乏しい、より苦痛な、より兄弟殺し的なものになるのである」と指摘。そして、「人々は未知のものと出会う過程を通じてのみ成長する」のであり、都市は「他の人々を人間として知らねばという強迫的な衝動なしに人々と一緒になることが意味のあるフォーラムでなければならない」と述べています。
「叔父-甥(ないしは叔母-姪)的関係」を「斜めの関係」と呼ぶ笠原(1977)は、叔父は「父親と違って自分が無責任でありうる程度に応じて、それだけ青年の言葉に素直に耳をかし考える自由度を増」し、「甥のほうも叔父に対してなら、息子として父に対する場合には見せられない顔を見せることができる」と指摘。鷲田(2004)は「第三者というのは、基本的に無責任だからよいところがあります。・・・・・・。無責任だけれども関心だけはちゃんと持ってくれていて、「やぁ、どうしてる」程度の言葉をかけてくれるところが、いいわけです」と「無責任で関心のある第三者の存在」の重要性を指摘しています。

この他にも、「挨拶程度の軽い近所付合い」によっても「共有領域」は「十分に生み出される」という小林(1992)の指摘、「街路に対する「信頼」は何年間にもわたって、おびただしい数にのぼる歩道でのちょっとしたつき合いから形成されてくる」というジェコブス(1977)の指摘)、自分と最も親密な人々ではなく、「弱い紐帯」、即ち「自分と単に弱く結びついている人々が、自分のまだ持っていない就業情報」をもたらしてくれるというグラノヴェター(1998)の指摘、「オープンな構えの居方の人、すなわち、知り合いではないが、話しかけてもよい人が町のあちこちにいる(いてくれる)ということは、ヒューマンな町の条件として、緑が多いことや景観が整っていることよりずっとポイントが高いと思う」という鈴木(1994)の指摘など、親密ではない他者との関係には積極的な意味があることが様々な観点から指摘されています。

中間的な関係

ここで、親密な関係にはないが、かといって全くの他人でもない関係のあり方を中間的な関係と呼びたいと思います(田中, 2008a)。中間的な関係が、より親密な関係へと変わっていくこともあり得ますが、ここで中間的な関係に注目しているのは、それがより親密な関係へと変わる可能性をもつからではなく、中間的な関係にある他者との関係が失われた状態、即ち、親密な関係にある他者とは関わりをもとうとするが、それ以外の他者とは全く関わりをもとうとしないという状態には問題があると考えるからです。つまり、中間的な関係がより親密な関係へと変わっていくか否かにはよらず、中間的な関係が、中間的な関係なままであることが許容されるということ自体に大きな意味があると考えています。
中間的な関係は、研究においても、都市計画の実践においても十分に考慮されてこなかったのではないかと指摘されています。
森岡(2001)は「親密な紐帯を含みつつ、その外側に拡がるネットワークの全体」を「拡大パーソナルネットワーク」と呼び、「拡大パーソナルネットワークを対象としてはじめて、個人と地域社会の人びととのつながりを具体的に捉えうる」が、「先行研究の多くは、調査研究の対象とするパーソナルネットワークを、個人と親密な他者との紐帯に狭く限定している」と指摘。大谷(2001)は「多くの調査研究が〈親しくしている近所の人〉とのつきあいに関心を集中させ、隣人をどの程度知っているかという〈隣人づきあい〉がほとんど調査されてこなかった」と指摘。
鈴木(2004)が「これまで計画論などで都市におけるコミュニティや社会関係を考える際に、架空の下町などをモデルにした擬似的コミュニティを想定することが多いように思う。逆に、デザイナーの中には、個人を単位にしてそれぞれが自由にやっていく都市を想定すればよいという人もいる」と指摘しています。

中間的な関係が生み出される場所

現在では失われつつあると指摘されている中間的な関係は、どのようにして生み出されるのか。この点について、次の山崎の指摘が参考になります。
山崎(2003)は社交について、「現象として見れば、社交の時間は人が適度の緊張を保ってくつろぐ時間であり、社交の場所はなかば公的な形式を備えた私的空間である。社交する人間は、労働の要求する硬い時間割からは解放され、しかしなお一人きりの休息が与えるじだらくは許されない。一方で自由に選んだ親しい仲間に囲まれながら、他方ではその仲間が暗黙のうちに強制する規律に従わねばならない。いいかえれば、時間も空間も、友人仲間を囲いこむために閉じられていなければならず、同時に第三者を受け入れるために開かれていなければならない」と指摘。
山崎の指摘は、平田(1998)による「セミパブリックな空間」という考え方に通じます。平田は空間を「プライベートな空間」、「セミパブリックな空間」、「パブリックな空間」に分類した上で、「道路や広場といったパブリックな空間」では「ただ人々はその場所を通り過ぎるだけだから、会話自体が成り立ちにくくなる」。それに対して、「セミパブリックな空間」は「他者が出入り自由な、対話の成り立つ空間」であり、そこは「物語を構成する主要な一群、例えば家族というような核になる一群がそこにいて、そのいわば「内部」の人々に対して、「外部」の人々が出入り自由であるということが前提になる」と指摘しています。

これらの指摘から浮かび上がってくるのは、中間的な関係は、誰もが同じ立場でアクセスできるパブリックな場所ではなく、アクセスにおいて何らかの制限のあるセミパブリックな場所においてこそ成立するのではないかということ。
日本では2000年頃から各地に開かれているまちの居場所(コミュニティ・カフェ、地域の茶の間、まちの縁側などと呼ばれることもある)は運営に携わる人、常連の人、時々訪れる人、初めて訪れた人など濃淡のある関わり方が許容されるセミパブリックな場所となっており、そこでは確かに中間的な関係が生まれていることが思い出されます。

また、世間話をする異世代の顔見知りの人に注目した調査(田中, 2008a)の結果からは次のようなことが浮かび上がってきました。
世間話をする異世代の顔見知りの人との関係(中間的な関係)は、相手が「場所の主(あるじ)」になっている場所で生まれている。「場所の主(あるじ)」とは、「その場所に(いつも)居て、その場所を大切に思い、その場所(の運営)において何らかの役割を担っている」人物のこと(田中, 2008b)。異世代の顔見知りの人との接触において、「場所の主」はいつもその場所に居るために、①わざわざその場所に会いに行くことができる存在になっており、それと同時に、②わざわざ会いに行かずとも、その場所に参加したり訪れたり通りかかったりすればそれに付随して顔をあわせることができる存在にもなっているということです。


※参考