ニュータウンを歴史と場所から考える:パルテノン多摩での講演会

2018年4月30日(月)、パルテノン多摩で開催中の「ニュータウン誕生~千里&多摩ニュータウンの都市計画と人々~」の関連講演会「ニュータウンとコミュニティ」にて講演をさせていただきました。
「ニュータウンとコミュニティ」は簡単に語れない大きなテーマであるため、講演会では、①歴史から考える、②空間から考えるの2つをキーワードとしました。
講演の中心は千里ニュータウンのことでしたが、ニュータウンをこれまでとは違う観点でみるきっかけになっていればと思います。講演の内容は以下の通りです。

ディスカバー千里〜ニュータウンを歴史と場所から考える〜

(1)ニュータウンの歴史を考え始めたきっかけ

(1-1)絵はがき作り

2002年、地域住民、建築・まちづくりの専門家、大阪大学の教員・学生により「千里グッズの会」が設立。千里ニュータウンのお土産になるグッズを作ることが目的であり、最初に取り組んだのが千里ニュータウンの絵はがき作りです。
2004年に「千里グッズの会」に参加してから、絵はがきのために千里ニュータウンの写真を撮り始めました。絵はがきの写真ということで当初は紅葉、雪の日、夕焼けなど綺麗な写真を撮影していましたが、写真を撮り歩いていると風景が急激に変わっていくことに気づかされました。ちょうどその頃、千里ニュータウンでは再開発が進められていたためです。
絵はがき用に撮影していた写真が、結果として再開発前の風景の記録になったという経験を通して、素朴な思いですが、今しか撮れない写真がある、今当たり前のことの記録が貴重な資料になることを実感。これが、「歴史のない街」と言われるニュータウンの歴史を意識し始めた1つのきっかけです。

(1-2)海外ニュータウンの訪問

もう1つのきっかけは海外のニュータウン訪問したことです。イギリスのレッチワース(Letchworth)、スティヴネージ(Stevenage)、ハーロー(Harlow)、アメリカのレヴィットタウン(Levittown NY)などを訪問し、海外のニュータウンでは

  • 開発時の建築が今も使われている(街並みが大きく変わっていない)
  • 街の歴史を展示するミュージアムでは、「ニュータウン開発後」の暮らしも、街の歴史を構成する重要なものとして位置づけられてる

ことがわかりました。ただし、ニュータウンの歴史はミュージアムの中に展示されているものだけではありませんでした。

この点で特に印象深かったのが、アメリカ・メリーランド州のグリーンベルト(Greenbelt)、イギリスのミルトン・キーンズ(Milton Keynes)です。

グリーンベルトはF・D・ルーズベルト大統領のニューディール政策によって開発された「グリーンベルト・タウン」の1つで、まち開きは1937年。ニューディール政策では9つの「グリーンベルト・タウン」が計画されましたが、実現したのはグリーンベルトと、オハイオ州のグリーンヒルズ(Greenhills)、ウィスコンシン州のグリーンデイル(Greendale)の3つです。

グリーンベルトでは第1期として、1937年にブロック造(Block)、レンガ造(Brick)の885戸、第2期として、1941年に木造(Frame)の1,000戸が建設。これらの住宅のほとんどは現在でも残されており、グリーンベルト・ホームズ(GHI=Greenbelt Homes, Inc.)という協同組合により管理されています。

グリーンベルトには街の歴史に関わるものとして、次のようなものがあります。

  • グリーンベルト・ミュージアム(Greenbelt Museum):1937年建設のレンガ造の住宅が利用されたミュージアム。1936〜1952年の中流家庭の家具、家電、写真などが展示されている。1人の住民の地域新聞(グリーンベルト・ニューズレビュー)への投書がきっかけとなり、まち開き50周年の1987年にオープン。2012年には、まち開き75周年記念の一環として、入居当初の暮らしを表現するダンス「ホームタウン・ヒーローズ」が、ミュージアムを舞台として上演
  • (Tugwell Room):図書館内の資料室。グリーンベルトにまつわる各種資料(マイクロフィルム、オーラル・ヒストリー、写真、地図、書籍など)、世界各国のニュータウンに関する書籍などが収蔵
  • グリーンベルト・ニューズレビュー(Greenbelt News Review):まち開き約2ヶ月後の1937年11月24日に創刊。イベント情報を伝えたり、意見交換のフォーラムを提供する必要があると考えた人々により創刊された。協同組合により、創刊時より途切れることなく現在まで毎週発行され続けている

歴史についてグリーンベルトの方は次のように話されていました。

「いつも市〔グリーンベルト市〕に思い起こさせていることの1つは、ミュージアムは市にとってマーケティング・ツールになることです。ミュージアムには時々、家を買うための下見に来る人がいます。・・・・・・。ミュージアムがあれば、なぜこの街に住むことが重要であるかの情報を共有できるし、新しく住宅を購入する人たちを惹きつける強力なツールになります。・・・・・・。歴史を守ること自体が重要なだけでなくて、歴史は人々を惹きつけ、お金を惹きつけるものでもあります。」(グリーンベルト・ミュージアムのキュレーターの話)

「私たちは新聞記事を書くことで、新しくグリーンベルトにやって来た人々に、歴史を知ってもらうためにできる限りのことをしています。・・・・・・。私たちは歴史に立ち返ってこう言います。「かつてはこうだった、それが何故変わってしまったのか、私たちが必要としてるのは何なのか」と。」(グリーンベルト・ニューズレビューの編集者の話)


ミルトン・キーンズは「ニューシティ」という位置づけのイギリス最大規模のニュータウンであり、イギリスで最も成功したニュータウンの1つと呼ばれています。ミルトン・キーンズ開発前はウォルヴァートン(Wolverton)、ストーニー・ストラトフォード(Stony Stratford)、ブレッチリー(Bletchley)の3つの村を合わせた4,000戸に60,000人が住むだけでしたが、1967年のミルトン・キーンズ開発がスタートしてから40年の間に住戸は78,340戸、人口が158,660人が増加。地域の変化は大きく変化しています。
ミルトン・キーンズにも、シティ・ディスカバリー・センターミルトン・キーンズ・ミュージアムリビング・アーカイブディスカバー・ミルトン・キーンズという街の歴史に関わる場所・活動があります。

この中で特に印象深かったのがリビング・アーカイブ(Living Archive)。1984年、アートと歴史にまつわる2人が創設した団体です。リビング・アーカイブは、

  • 進歩という名のもとにそれまでの暮らしと歴史が破壊されたニュータウン開発前から住んでいた人が、どうすれば、誇りを持ち続けることができるか?
  • 家族や仲間をおいて、まっさらな土地にやって来たニュータウン開発後に移り住んで来た人が、どうすれば、新しい場所を継承することができるか?

に取り組むため、次の2つをモットーとして活動する団体です。

  • 誰にでも語るべき物語がある(“Everybody has a story to tell”)
  • 自分がいる場所を掘る=理解する=好きになる(“Digging where you stand”)

リビング・アーカイブ(Living Archive)は「生きた/生き生きしたアーカイブ」という意味になり、これは矛盾した一見すると相容れない表現のようにも思えますが、リビング・アーカイブでは人々の思い出を素材にしたミュージカル・ドキュメンタリー演劇、映画、本、写真展、CD-ROMs、ラジオ・ドキュメンタリー、ビデオ・ドキュメンタリー、彫刻イベント、テキスタイル・プロジェクト、ダンス・ショーを制作・上演したり、ウェブサイトで情報を発信するなど、作品を地域に還元する、共有することが重視されています。
リビング・アーカイブの拠点にはトレーニング・ルームがあり、パソコンを用いた資料のスキャニング、画像編集、録音、データベース作成、ウェブサイト・ブログ作成など、まちづくりに関するITトレーニング・コースが開催されているのも特徴です。

「リビング・アーカイブは、偶然アーカイブを作ることになりました。なぜなら、〔街を〕調べた結果を演劇や本、ウェブサイトのために使ったことで、同時にアーカイブが蓄積されていったんです。・・・・・・。当初、1980年代は〔インタビューを〕録音さえしてませんでしたし、ビデオも使っていませんでした。」(スタッフの話)

このように話されているように当初はアーカイブ作りが考えられていたわけではありませんが、活動を通して100,000枚以上の写真、約35,000枚の写真ネガ、1,000時間以上の録音テープが蓄積されたということです。

ディスカバー・ミルトン・キーンズ(Discover Milton Keynes)は、リビング・アーカイブが運営する場所。2008年、センター地区のショッピングセンター空き店舗を活用し、歴史とアートの団体のための「ショーケース」として開かれました。ミルトン・キーンズに関する展示、団体紹介のパンフレットの配布、書籍やグッズの販売が行われていますが、同時にバスのチケット売り場、観光案内所の役割も果たしています。

「ミュージアムには歴史が好きな人しか行きません。ここで実験しているのは、より多くの幅広い人を引きつけることです。ここに来る人は買い物客で、彼らのほとんどはミュージアムになんて行こうと思ったことがありません。ここに来る一番の理由はバスのチケットです。・・・・・・・でも、少しずつ、彼らは〔ここに置かれている〕ミュージアムのリーフレットに気づいて、手に取り始めるようになりました。」(スタッフの話)

このように話されているように、ついでに立ち寄ってもらえる場所であることに意味があるとのこと。なお、2011年からディスカバー・ミルトン・キーンズは中央図書館内に移転しています。


海外ニュータウンを訪問し、計画・開発の資料といったオフィシャルなものから、日記、手紙、語りなど個人の暮らしにまつわるものまでが歴史の対象とされていることがわかりました。加えて、次のようなことにも気づかされました。

  • 自分たちの暮らしの積み重ねが街の歴史だという認識
  • 必要だと感じた人が、自分たちでできるところから始められた活動もある
  • 意識的に資料を集めたわけでなく、結果として生み出されるアーカイブもある
  • アーカイブは、ある一時点で完成されるのではなく常に増え続ける
  • 街の歴史(=自分たちの暮らし)が様々なかたちで残され、公開されている
  • 歴史的な資料の実物を展示するだけではなく、ついでに立ち寄れる場所も必要
  • 歴史を残すこと自体も大切だが、街の歴史は、街の将来を考えるための参照、人々を街に巻き込むためのツールにもなる

(2)ニュータウンの歴史とは〜千里ニュータウンの場合〜

千里ニュータウンの歴史は、①千里丘陵の暮らし・環境を継承したもの、②ニュータウン開発に込められたもの、③住民が作りあげてきたもの、の3つの観点から捉えることができると考えています。

(2-1)千里丘陵の暮らし・環境を継承したもの

千里ニュータウンは千里丘陵に開発されましたが、そこは無人の荒野ではなく人々の暮らしがあった。開発前の行政区画図をみると、津雲、古江、藤白といった小字名を見ることができ、これらは津雲台、古江台、藤白台と千里ニュータウンの住区名に採用されています。

ニュータウンの開発にあたっては千里丘陵の自然や地形が公園に取り入れられています。公園内の池は、農業用のため池でした。東町公園、桃山公園の竹林、樫ノ木公園の赤松も開発前の自然が取り入れられたもの。興味深いのは、東町公園、桃山公園の竹林を整備する「千里竹の会」、樫ノ木公園の赤松を保存する「赤松を守る会」のように、継承された自然・地形は、結果として継承されたものを自分たちで維持管理する地域の活動を生み出すきっかけになっていることです。

上新田は寛永3(1626)年に開かれた400年の歴史を持つ集落で、千里ニュータウンのほぼ中央に位置する計画除外地です。ここでは今でもニュータウン開発前の建物を多数見ることができ、天神社は千里ニュータウンの人々にとっても密接な関わりをもつ場所でした。なお、近年では分譲マンションの開発により上新田の竹林は失われつつありますが、若い世代が入居している影響で上新田の人口は現在でも増加し続けています。

(2-2)ニュータウン開発に込められたもの

日本で最初の大規模ニュータウンである千里の開発においては、クラレンス・A・ペリーにより提案された近隣住区論、アメリカ・ニュージャージー州のラドバーン(Radburn)で用いられた歩車分離の仕組み(ラドバーン方式)を取り入れただけでなく、千里丘陵の地形や自然を継承したり、団地の住棟配置や歩車分離を工夫したりと、様々な試みがなされています。海外の理論を学ぶと同時に、現場で様々な工夫がなされたことは忘れてはならないことです。

千里ニュータウンでは、前半に開発された住区ではクルドサック(袋小路)が、後半に開発された住区では歩行者専用道路のネットワークが採用されたと一般的には言われてきました。けれども、ディスカバー千里の調査を通して、新千里北町にだけ50基以上設置されている動物型、○△□などの幾何学型のユニークな車止めは、クルドサック(袋小路)からループ型道路への移行の際に採用されたものであることが明らかになってきました。
クルドサックでは道路形状が複雑になる、先端に車が転回する空間が必要ですが、ループ型道路はこれらの課題を解決することができる。そして、歩行者専用道路の出入口にユニークな車止めを設置することで安全性の確保が考えられたということです。
ただし、車止は最初から設置(住宅建設より前に設置)されたため、住宅建設の際に邪魔になったなどの理由で、新千里北町以降の住区ではほとんど採用されなくなっています。なお、車止めのうち、動物型は公園の遊具として作られた既製品を車止に転用したもの、○△□などの幾何学型は新千里北町に設置するために作られたものだとされています。

団地の住棟配置も様々な工夫がなされています。一般に団地の住棟は、南面の日当たりを重視するため、東西に細長い住棟が平行に配置されることが多くなっています。これを「平行配置」と呼び、千里ニュータウンではUR(公団)の団地で採用さています。この場合、それぞれの住棟へは北側から入るため、隣り合う住棟の人同士が接触が生まれにくいといった欠点があります。
これを解決しようとしたのが、「北入り」「南入り」を組み合わせた「平行配置」です。東西に細長い住棟を平行に配置するのは同様ですが、北側から入る「北入り」住棟、南側から入る「南入り」住棟をペアで配置することで、南面の日当たりを重視しながら、隣り合う住棟の人同士の接触の機会を生み出すための工夫です。
さらに、府営住宅では「囲み型配置」(コの字型配置)が採用されました。これは、中庭を作るように住棟を配置し、中庭を居住者の暮らしの場とするという工夫です。

千里ニュータウンの集合住宅の住棟には、ABCDの標示がなされています。

  • A:大阪府住宅供給公社
  • B:大阪府営住宅
  • C:UR(公団)
  • D:社宅

この住棟標示は、住棟の配置と大きく関わったものです。

「私どもの〔大阪府〕企業局が造成した造成地に住宅を建てるのは戸建住宅以外は同じ大阪府のなかでも建築部であり住宅協会(後の府住宅供給公社)であり、あるいは住宅公団(後の住宅都市公団で現在の都市基盤整備公団)や一部給与住宅(社宅住宅)で、仲々最初に私どもが描いた配置通りにはなりません。彼らは実際の住宅供給の経営責任から、・・・・・・従来からの南面重視の平行配置を主張しました。
「コの字型」配置〔囲み型配置〕は住宅棟の囲みによるコミュニティの構成を企図したものです。・・・・・・。しかし、このような論争の結果、住居表示決定の際に私どもの考えを前向きに採用した住宅協会の110戸の棟標示には「A」を与え、一部平行配置の持論を固執した750戸の府営住宅を「B」としたのは、いまとなっては後味の悪い思い出です。また、住宅公団は「C」、給与住宅は「D」としました。しかし、このような棟標示の方法も差別排除の立場からか泉北ニュータウンからは一切廃止されました。」
*山地英雄『新しき故郷−千里ニュータウンの40年』NGS 2002年

このように紹介するとUR(公団)ではあまり住棟配置がされなかったような印象をもたれるかもしれませんが、上で紹介した「北入り」「南入り」を組み合わせた「平行配置」の他、正方形の断面を持つ住棟、ピロティをもつ住棟などを配置することで単調になりがちな団地の景観に変化を持たせる工夫がされています。千里ニュータウンの後半に建設されたUR新千里東町団地、UR竹見台団地では住棟が緩やかな囲みを作るように配置され、両側からアクセスできる階段室をもつ住棟、ピロティ型の住棟などが配置されています。

ここで紹介した団地の住棟配置、歩車分離といったハード的な仕掛けだけで、住民のコミュニティが形成されるわけではありません。しかし、千里ニュータウン開発に携わった人々は、単に住宅を大量に供給するのみならず、いかにコミュニティを形成するかを考えていたことは継承すべき事実です。

千里ニュータウン開発で取り入れられた仕組み、知見は『多摩ニュータウン計画・設計マニュアル’76(計画設計編)』(1975年12月)にもまとめられています。そして、例えば、歩行者専用道路のネットワークは多摩ニュータウンにも継承されるなど、千里ニュータウンは、その後のニュータウン開発に大きな影響を与えました。

(2-3)住民が作りあげてきたもの

千里ニュータウン開発では様々な工夫が取り入れられたが、人々が暮らす街が「開発」だけで完成するわけではありません。千里ニュータウンに入居した人々は、入居直後から様々な活動・場所を立ち上げてきたという歴史があります。

その1つに、府営住宅における単位自治会の設立をあげることができます。ニュータウンに入居したのは全国から集まってきた人々。そのような人々がニュータウンという慣れない環境での暮らすことをサポートするために、例えば、最初に入居が始まった府営千里佐竹台住宅では、11人の大阪府職員が「管理人」として入居。この「管理人」が中心となり、いくつかの住棟がまとまり単位自治会が結成されたという歴史があります。大阪府は、コミュニティ形成のため団地の住棟配置、歩車分離というハードだけを考えていたわけでないことが、このことからは伺えます。

住棟内では階段室ごとのまとまりも重要な単位でした。通常、304号室は3階の部屋を表すことが多いですが、千里ニュータウンでは300番代の階段の下から4つ目の部屋、つまり2階の部屋を表します。

Gさん:階段の前での井戸端会議はすごかった。階段の前でね。主人なんか、早く帰ってくるか、遅く帰って来るかしないと、井戸端会議で通れないって言ってました。

Jさん:階段室から1人、自治会の役員を決めるんです。10軒ある中で毎年選ぶから、10年間で一回り。もう40年いるから4回も5回もした人もいます。
〇:回覧板も階段で回す。

Mさん:昔は集会所でお葬式もあったから、お葬式があった時は階段ごとに、台所を借りたり、チラシを作ったりしました。私の階段では2回チラシを作って、集会所でお葬式をしました。
*「ディスカバー千里」ウェブサイト「府営新千里東住宅の地域活動」のページより。

このように、階段室前で井戸端会議をしたり、自治会の基礎単位になったり、お葬式の時に協力をしたりすることが行われていました。

府営新千里東住宅も「囲み型配置」がなされた団地ですが、当初、中庭は住民たちの交流、遊びの場所で、バレーボール・コートもありました。府営住宅には風呂場が設置されていなかったため、1981〜1985年にかけて風呂場の増築がなされることになります。この増築は中庭に向けて行われました。また、マイカーの普及に対応するため中庭の一部が駐車場とされました。これにより中庭の空間が小さくなり、住民の交流の場所が囲みの内側(中庭)から囲みの外側へと移動したことということです。

住民が作りあげてきたものは、入居初期の時期に限られるわけではありません。それは、例えば、近年の近隣センターの変化に見られます。近隣住区論に基づいて計画された千里ニュータウンにおいて、近隣センターは各住区の核とされた場所で、かつては日用品を扱う店舗、集会所、銭湯などがありました。けれども、住戸内への風呂場の増築、自家用車の普及などに伴い、次第に空き店舗が目立つようになってきていました。
ひがしまち街角広場」は新千里東町近隣センターの空き店舗を活用して開かれたコミュニティ・カフェの(千里ニュータウンに限らず日本全国における)パイオニア的な存在です。

「ニュータウンの中には、みんなが何となくぶらっと集まって喋れる、ゆっくり過ごせる場所はございませんでした。そういう場所が欲しいなと思ってたんですけど、なかなかそういう場所を確保することができなかったんです。」(初代代表の話)

千里ニュータウンは様々な考えが取り入れられ、様々な施設が整えられた街だが、これは同時に「専門家/計画者によって作り込まれ過ぎた街」であることも意味する。つまり、特定の目的を持たずに「何となくぶらっと集まって喋れる、ゆっくり過ごせる場所」が存在しない、住民が何か新しいことを始めるための余地を見出すのが難しいということです。

2000年、新千里東町が建設省(現・国土交通省)の「歩いて暮らせるまちづくり事業」のモデルプロジェクト地区に選定。この事業において住民を交えたワークショップが開催され、「近隣センターを生活サービス・交流拠点へ」という提案がなされました。この提案を受け、豊中市の社会実験として2001年9月30日にオープンしたのが「ひがしまち街角広場」です。そして、半年間の社会実験終了後は、豊中市からの補助を受けない住民による「自主運営」が行われ、現在、月曜〜土曜(第4土曜日は定休)の11〜16時まで運営されています。「自主運営」が始まった2002年3月から現在まで補助金を一切受けることなく、コーヒー、紅茶などの飲物(100円)の売上げと、夕方の団体利用の場所代(500円〜)だけで、店舗の家賃、水道光熱費、食材費など全てがまかなわれています。
「ひがしまち街角広場」は10数人の住民ボランティアによって運営されていますが、ボランティアをしている人の多くは、ニュータウンの第一世代として、暮らしを共にしてきた人々。こうした地域での暮らしの歴史の蓄積が「ひがしまち街角広場」の運営につながっていると言えます。

「ひがしまち街角広場」がオープンした2000年頃は新千里東町の人口が減少しつつあり、地域のあり方が見直されていた時期。この時期には「ひがしまち街角広場」だけでなく、地域新聞「ひがしおか」の創設(2001年)、「東丘ダディーズクラブ」(2001年)、「千里グッズの会」(現在のディスカバー千里、2002年)、「千里竹の会」(2003年)と地域に新たなタイプの活動が生まれており、地域の活動は歴史と密接に関わっていることが伺えます。

「ひがしまち街角広場」は単に高齢者が集まってお茶を飲むだけの場所ではなく、「ひがしまち街角広場」で出会った人々が「写真サークル・あじさい」、「千里竹の会」、「NPO法人千里・住まいの学校」、「千里グッズの会」などの団体を設立するなど、新たな地域活動を立ち上げる拠点という側面もあります。また、「ひがしまち街角広場」のような場所が欲しいと考えた人によって、千里文化センター・コラボの「コラボひろば」(コラボ交流カフェ)、府営新千里東住宅の集会所で毎月2回開かれている「3・3ひろば」、UR新千里東町団地の集会所で毎月1回開かれている茶話会が生まれた。「ひがしまち街角広場」で見られる人々が思い思いに過ごしているという光景は、「こんな場所が欲しかったんだ」という事後的な気づきを与えているということです。

2016年から「ひがしまち街角広場」主催で、地域の公園の竹林清掃が行われ、子どもを含めた地域住民が参加。これには「ひがしまち街角広場」にゆかりのある「千里竹の会」、「東丘ダディーズクラブ」、「ディスカバー千里」(千里グッズの会)も協力。竹林清掃は、地域の場所を管理する、地域の場所に手を加える活動であり、また、千里丘陵から継承された自然・地形は、継承されたものを自分たちで維持管理する地域の活動を生み出すきっかけになっているという意味で興味深い動きとなっています。

(2-4)近年の再開発

近年の千里ニュータウンは再開発が進められ、人口は増加傾向にあります。入居しているのは若い世代が中心であるため、高齢化率は約30%を推移していますが、詳細にみると前期高齢者の割合が減少している反面、後期高齢者の割合は増加していること、つまり、ニュータウン第一世代の人々が後期高齢者になりつつあることは見過ごせません。
今の時代、集合住宅の建て替えが行われ、人口が増えるだけでも恵まれていると言われることもありますが、ここで評価されているのは都心へのアクセス、静かな環境など「ベッドタウン」としての価値。再開発に伴い上新田の竹林の消滅、車止めの撤去、近隣センターの移転、囲み型配置の団地の消滅、住棟の階段室型から廊下型への変化といった出来事が生じており、千里ニュータウンが継承、蓄積してきた歴史が十分には省みられていないとも言えます。

(3)ニュータウンの歴史と暮らし〜ディスカバー千里の試み〜

ニュータウンは歴史がない街、歴史が蓄積されない街だと言われることもありますが、

  1. 千里ニュータウンは、無人の土地に開発されたわけではない
  2. 画一的、無個性に見えるニュータウンだが、開発においては様々な工夫がなされた
  3. ニュータウンに移り住んできた人々は、自らの手で街を作りあげてきた

千里ニュータウンにはこうした歴史があります。けれども、近年の再開発でこれらが見えにくくなっている。こうした状況に対して、「ディスカバー千里」(千里ニュータウン研究・情報センター)は歴史と暮らしの結びつきを発見する/生み出すことを糸口として、地域の見方を変わる、価値を認識する、新たな関係を築く、地域を変えるといった変化を生み出すことを目指す活動を続けています。
「ディスカバー千里」はこれまで次のような活動を行ってきました。

  • 調査・調査のサポート:新千里北町の車止め、府営新千里東住宅の住まい方の変化、新千里東町の分譲マンションのコミュニティ、千里ニュータウンの公園、「ひがしまち街角広場」など、千里ニュータウンを対象とする調査、及び、調査のサポート。千里ニュータウンの暮らしについてのインタビュー
  • 資料収集
  • メディア制作:絵はがきカレンダー、冊子の制作・販売、ウェブサイトによる情報発信。絵葉書は千里ニュータウンの代表的な風景、季節の風景、歴史、調査結果などを素材とするもので2003年から2016年にかけて、7セット、計44種類を製版・印刷。東丘小学校PTA「創立50周年特別部」とのコラボレーションで東丘小学校創立50周年記念絵はがきを制作
  • ワークショップ・講演
  • 場所をしつらえる:「大きな本」の制作、「千里ニュータウン展@せんちゅう」、千里ニュータウン情報館開館1周年記念企画展「51年目のまちづくり~千里ニュータウンで今、始まっていること~」の会場の展示、コラボ2坪マルシェへの出店など。「大きな本」は高さ1.8m × 幅1.26mのサイズの本で、ワークショップの会場、街歩きのコースに展示したり、インタビュー時に、昔のことを思い出してもらうためのきっかけとして利用。「大きな本」には地域を知るための、人々の思い出や考えのアーカイブのための、街の風景を変えるためのツールになるなどの意味がある
  • まち歩き:「大きな本」による新千里東町ツアー(2012年10月、11月)、「千里ニュータウンの今後を考える街歩き」(2013年9月・10月)、「団地パンまつり&まち歩き」(2016年10月)、コミュニティ政策学会のエクスカーション(2017年7月)などを開催。「東丘ダディーズクラブ」主催の「いにしえ街歩き 東町昔遊びツアー(2011年11月、2012年11月)、新千里東町地域自治準備委員会主催のまち歩き(2012年2月)などへの協力。さらに、ディスカバー千里では2017年から有料のまち歩きという新たな試みとして「車止め街歩きツアー」を開催。車止めに関する調査結果を紹介するもので、約1時間の講義+約2時間のまち歩きを実施。参加費の一部を車止めのある新千里北町地域自治協議会に寄付
  • 場所に手を加える(ことのサポート):新千里東町の豊中市立第八中学校の利用されていなかった中庭ベンチを綺麗にする「八中の中庭を蘇らせよう!プロジェクト」。新千里北町50周年記念として北丘小学校のプール外壁を再塗装する「北町みんなでペイント祭り」のコーディネート。「ディスカバー千里」による車止め調査、講座、まち歩きを通して、車止めが地域の財産として認識されるようになり、2018年には新千里北町地域自治協議会の主催で「北町車止めペイント祭り」が開催。北丘小学校の子どもを含めた住民が、車止めのペンキ塗り替えが行われた。「ディスカバー千里」は車止めの意味やペンキ塗り方についての講座、ペンキの色の検討などを担当

現在、「ディスカバー千里」で中心になって活動しているメンバーは8人で、「千里グッズの会」の頃からのメンバー、千里文化センター・コラボ市民実行委員・広報部会で『ぶらり千里〜魅力発見ガイドブック〜』の編集に関わったメンバー、大学院時代に千里ニュータウンの研究を行なったメンバーによって構成されています。以上の活動を行うにあたっては8人が中心となり、随時、住民・住民団体、行政、専門家・研究者らとの連携を行っています。

「ディスカバー千里」は、

  • 暮らしの歴史が見えにくい街:風景が急激に変化、歴史を知らない人が一斉に転入
  • 住民が関わる余地の少ない街:一度に作られ、完成され過ぎている
  • 仕事場がない街:ベッドタウンとしての評価

という千里ニュータウンの状況に対して、歴史を入口として「調べる」、「共有する」、「自分たちで場所を変える」、「お金の流れを生み出す」という観点からの活動を行ってきたと言うことができます。


講演後の質疑応答では、「多摩ニュータウンに比べて、千里ニュータウンは失ったものが多いように思うが、(ディスカバー千里は)「あっけからんと楽しく」活動しているように見える」という意見をいただきました。
価値判断は保留するとしても、「千里ニュータウンは失ったものが多いように思う」というご指摘はその通りだと思います。

  • ニュータウンは「オールドタウン」と否定的に言われることがあるが、結局、ニュータウンの何が問題だったのか? そこから何を学ぶべきか? がきちんと省みられないまま、千里ニュータウンは急激な再開発により、これまで蓄積されてきた歴史が失われつつある。
  • 今の時代、集合住宅の建替えが行われ、人口が増加するだけで恵まれているという言い方もできるが、現在採用されている等価交換方式による建替えは、恐らく「一度きりしか使えない」方法。再開発により5階建ての集合住宅が、10〜20階建てに高層化されたが、それでは次に建て替える場合はさらに高層化するのか? など、この次の見通しが立たない。
  • 建て替えに伴う若い世代の入居により、近年、高齢化率の増加はとまった(高齢化率は約30%を推移)。一見若返ったように見えるが、後期高齢者の割合は増加し続けていることを見過ごしてはならない。
  • 千里ニュータウンでは、(集合住宅の住民だけでなく)住区の住民全体で集合住宅の建替えを考えるラウンドテーブル方式(佐竹台方式)という先駆的な取り組みが行われたが、これは佐竹台以外には広がらず、地権者、ディベロッパーが主導するかたちで再開発が進められている。

これらの課題について、もう少し上手い向き合い方があるのではないかと感じますが、これはあくまでも住民ではない立場で千里ニュータウンで活動をしている者としての感じ方。千里ニュータウンの住民ではない者が勝手に悲観的になっていても仕方がないので、ささやかでも自分たちにできることを続けることが大事だと考えているという話をさせていただきました。もちろんこれは投げやりになっているのではなく、活動の蓄積がもつ力というものがきっとあると考えています。