千里ニュータウンの宗教施設/宗教的な場所

千里ニュータウンは、クラレンス・A・ペリーが提案した近隣住区論に基づいて開発されていますが、ペリーの近隣住区論とはいくつかの違いが見られます。その1つが宗教施設の扱い。

ペリーによる近隣住区論は小学校(公立の小学校)を住区の中心とするものですが、同時に重要視されているのが教会です。ペリーは『近隣住区論』において次のように述べています。

「プランナーが、将来のコミュニティにおける宗教的要求について確実な知識をもっていないなら、プランナーは、アメリカの標準的な人口をもつ近隣住区の中に三つの教会の敷地を十分に確保しておくかもしれない。この中の二つ−−一つは儀式をやる集団のために、もう一つは儀式をやらない集団のために−−はシビック・センターの構成要素となるだろう。三つ目の敷地は、おそらく住区の中の、商店街地区に予定されていないコーナーの、どこか重要な交差点に設定されるであろう。ここで適用する原則は、近隣住区サービス範囲と同じサービス範囲をもつ施設は、中心地区に置くべきであり、住区の外からも人々と車を引きつけるような施設は、近隣住区の境界またはその付近になければならないということである。そのような場所を設定することは、住区の外から来る人の多い教会を、教会に通う人が利用する公共交通機関に便利なところにおくことにもなる。」
*クラレンス・A・ペリー(倉田和四生訳)『近隣住区論』鹿島出版会 1975年

大阪府企業局によって開発された千里ニュータウンの場合は、政教分離の必要があったため、宗教施設が住区の中心として重視されることはありませんでした。大阪府の職員として、千里ニュータウン開発に携わった山地英雄氏は次のように話しています。

「やはり公共事業ですから、宗教的な施設には手を出さない、自ら神社を作るとかそういうことはできなかった。」
*「ディスカバー千里」ウェブサイト「開発者に聞く「千里ニュータウンの回顧」」のページ

哲学者の鷲田清一氏は古い都会にあってニュータウンにないものとして、「大木と、宗教施設と、いかがわしい場所」をあげていますが、これは千里ニュータウンにも当てはまります。

千里ニュータウンではペリーの近隣住区論のように、宗教施設が住区の中心として重視されることはありませんでしたが、いくつかの宗教に関わる場所があります。

古江稲荷神社

古江台のはぎの木公園には古江稲荷神社があります。
以下に紹介するのは、まちびらきから数年が経過した時期の新聞記事ですが、これを読むと、千里ニュータウンにおいて初詣をどうするか、夏祭りをどうするかが議論になっていたことが伺えます。

“ご本体を戻そう” 住民の熱望で具体化
古江台にある神社を改装してニュータウンの“お宮さん”にしようとの声が日増しに高まってきています。
ニュータウンでは、お正月にも神社にお参りするところがなく、また夏祭りもできないという言葉は早くからきかれていましたが、当初適地もなく、またいずれ企業局、千里開発センターが作ってくれるだろうと安易に見すごされてきたわけです。
ところが、ニュータウン全域の神社といっても、企業局では「特定宗教」は支援せずとの建前から“お宮さん”を建てる計画はなく、結局住民の手で作って下さいといっています。そして場所としては古江台にある神社の復活を提唱してきているものです。
この神社は、千里が開発されるまえ、山田地区地元民の“お宮さん”として長いあいだ親しまれてきたものですが、ニュータウンの開発にともない“ご本体”を別の場所に移したため、お参りする人もなく今日にいたっているものです。しかし最近になってニュータウン市民の強い要望から“ご本体”をここに戻そうという空気が生まれ、また神社を復活する「宗教法人」設立の準備委員会も作られることになりました。
ぐるっと池に囲まれた小高い丘、ニュータウンには珍しい何年も経た松林がうっそうと茂ったこの地は、すでにニュータウン名物となった展望台にもほど近く、お宮参りしたあとは展望台にのぼり、中央公園でひと休みといった家族連れの憩いの場としては最適なところ。神社が復活すれば周囲の公園、展望台までの道路は完備しましょうと開発センターではいっています。
*「古江台に“お宮さん”復活」・『ニュータウン』第37号 昭和41年11月6日

なお、はぎのき公園のには「木の又地蔵尊」というお地蔵さんも祀られています。

九十九交通安全地蔵

津雲台のあやめ池には九十九交通安全地蔵が建立されています。以下の記事に紹介されているように、この地蔵は津雲台の老人クラブの手によって建立されたもの。記事では「千里ニュータウンでも六〇パーセントの人は、神社仏閣等の信仰の場を希望している」というアンケート調査結果も紹介されています。

一昨年、高松宮ご夫妻がこの千里ニュータウンにお越しになられた折、千里開発センター2階ホールで「ニュータウンでは寺院等の信仰母体はどうなっているのか」とお尋ねになったエピソードもまだ私たちに耳新しい記憶として残っているが、大阪府が東洋一と誇るこの千里ニュータウンの住宅開発計画のなかには住民が心のよりどころとして望んでいる神社仏閣等の信仰母体は何ひとつ存在していないのである。勿論、近代的な都市づくりのなかで信仰云々といった寺院の施設は近代的思想(?)の洗練を受けた所謂、知識階層と呼ばれるお役人がたにはトント関係のない、むしろ笑止千万に近い世迷いごとであるかも知れないが大半が若い世代の人たちが生活しているといわれているこの千里ニュータウンにも各住区には老人クラブが続々結成されている現状から−まして近頃のようにカーつき家つきババ抜きといった老人たちには辛い世相のなかでせめてその人たちに心のやすらぎをあたえる信仰母体があっても良いのではないかと思うのもあながち高松宮だけでないようである。しかし、千里ニュータウンに神社仏閣のたぐいをつくることは役人のこけんにもかかわるとあってか府企業局は何らそのことに対するてだてはとらないでいた。そんなときはからず、過日、津雲台住区の老人クラブ明朗会(中山吉助会長)と千里ニュータウン交通安全会(責任者−本橋清貞氏)では二百三十五年前の作だと云われている地蔵像を町の篤志家からゆずられるという機会にめぐまれ府企業局に交渉、あやめ池公園の一角に敷地の提供を受けたのでほこらをたてこの地蔵像を安置、「九十九交通安全地蔵」と名付けられまつられることになった。老人たちは孫の手をひいて詣うでる慰楽の場として、又、日々激増する交通事故をすこしでもすくなくするための交通安全祈願の場としての信仰母体が、いま、新しい町づくりの計画施工者の手ではなく、民間の有志の人たちによってこの千里ニュータウンに初めて実現を見たわけである。
この地蔵像は大阪市が築港地区の区劃整理を行なった折、当時の天保山運河から発掘された三体の地蔵像の一つである。地蔵像には正徳四年二月十四日とおそらくこの地蔵像のつくられたと想像される日づけがきざまれていることから約二百三十五年前のものと推察されている。作者名が消滅しているため作者が判然としないのは残念だが二百年のその昔、大阪港に出入りする船の航行安全を祈っての地蔵尊でないかともいわれている。その地蔵像が築港にある高野山(お寺)から佐井寺の山田寺に護られてあったのを津雲台の老人クラブが入手されてこの「九十九交通安全地蔵」が誕生した。余談だが本橋氏の話によると信仰の対象としての神社仏閣等の要不要のアンケートによればこの新しい町、千里ニュータウンでも六〇パーセントの人は、神社仏閣等の信仰の場を希望しているとのことである。
*「千里ニュータウンに初の信仰の場 “九十九交通安全地蔵” 23・24日に地蔵まつり」・『千里山タイムス』第143号 昭和42年8月25日

団地神社

千里ニュータウンの開発主体であった大阪府が宗教施設を作ることはありませんでしたが、大阪府の「承認を得て」建立された神社がありました。

神社が建立されたのは、かつて新千里西町の近隣センターにあった千里西町マーケットの屋上。千里西町マーケットがオープンしたのは昭和43(1967)年3月22日。その2ケ月後に神社が建立されています。

「全国で始めての団地神社」として次のように紹介されています。

開店以来、芸能人の公開録音、青空野菜市など多様な商法で消費者への利益還元を企図して好評を博している豊中市新千里西町の西町マーケットは府企業局の承認を得て千里ニュータウンに初の神社建立を実現することになった。
建立場所はマーケット屋上北隅で千里神社と呼称する予定。
同神社には豊中市桜塚元町三丁目の原田神社の祭神が紀〔祀〕られる。
原田神社(高畠光明宮司)は豊中市でも著名な神社でスサノヲノ命を主神に天照大神、菅原道真公を併せまつられている神社で千里神社にはそれらの神々の分身が鎮座されるとのことである。
来たる二十五日には、社殿が安置され、二十六日には鎮座大祭が行なわれる。鎮座大祭当日には五斗余りの餅まき行事(餅の中には百円硬貨など入れたラッキー餅がある由)や稚児行列などのお祭り行事が繰開げられる。これで神社仏閣に縁のなかった団地の人々にも信仰の足がかりになりそう。
*「千里タウンに神社建立の一番のり 新千里マーケット西町」・『千里タイムズ』第168号 昭和43年5月17日

豊中市新千里西町、西町マーケットの屋上にある、全国で始めての団地神社(新千里神社)でも、七・五・三詣りが行なわれ、氏神さまを(持?)たない、団地っ子たちの七・五・三詣りでにぎわいました。また、つぎの十六日の日曜日には、おみこしがかつがれ団地内をねり歩き、秋祭りのムードをもりあげました。
*「団地っ子の七・五・三詣り 西町の新千里神社で」・『千里タイムズ』第234号 昭和44年11月21日

団地神社が建立された千里西町ストアは、現在はマンションとして建て替わっています(マンションの竣工は2000年)。それでは団地神社はどうなったのか。

実は団地神社の鳥居は、現在、上新田・天神社の御旅所の鳥居として現在も残されています。

千里ニュータウンの古江稲荷神社、九十九交通安全地蔵と、かつて新千里西町にあった団地神社をご紹介しました。千里ニュータウンには他にも宗教にまつわる場所があります。

大阪府によって開発された千里ニュータウンでは宗教施設は作られませんでした。
しかし興味深いのは、ここで紹介した記事から伺えるように宗教施設のないニュータウンにおいて、暮らしにとけ込んだ初詣、夏祭り、七・五・三詣りなどの行事、あるいは、「心のやすらぎ」をどう実現するかは大きな課題になっていたこと。
もう1つ興味深いのは、暮らしに必要な宗教的な場所を、住民たちが作り上げていったこと。確かに千里ニュータウンは大阪府によって開発されましたが、大阪府が作らなかったものを住民たちが補完するように作り上げていったことがわかります。

宗教的な場所を抜きにして、地域は成立し得ないこと。住民は、大阪府によって作られたニュータウンにお客さんとして住んでいただけではないこと。千里ニュータウンの宗教的な場所にまつわるエピソードからこれらのことが浮かび上がってきます。


参考

  • クラレンス・A・ペリー(倉田和四生訳)『近隣住区論』鹿島出版会 1975年
  • 「古江台に“お宮さん”復活」・『ニュータウン』第37号 昭和41年11月6日
  • 「千里ニュータウンに初の信仰の場 “九十九交通安全地蔵” 23・24日に地蔵まつり」・『千里山タイムス』第143号 昭和42年8月25日
  • 「千里タウンに神社建立の一番のり 新千里マーケット西町」・『千里タイムズ』第168号 昭和43年5月17日
  • 「団地っ子の七・五・三詣り 西町の新千里神社で」・『千里タイムズ』第234号 昭和44年11月21日
  • 「ディスカバー千里」ウェブサイト「開発者に聞く「千里ニュータウンの回顧」」のページ