『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

結果としての介護予防を正統的周辺参加(LPP)から考える(アフターコロナにおいて場所を考える-28)

居場所における正統的周辺参加

新潟市東区に、新潟市の最初の「地域包括ケア推進モデルハウス」(基幹型地域包括ケア推進モデルハウス)として開かれた「実家の茶の間・紫竹」という場所があります*1)。「地域包括ケア推進モデルハウス」とは、「子どもからお年寄りまで、市民一人ひとりが住み慣れた地域で安心して暮らせるまちの実現を目指し、支え合いのしくみづくりを進めるための拠点」*2)で、新潟市では、市内各区に「地域包括ケア推進モデルハウス」を開いてきました。

「実家の茶の間・紫竹」が目指すのは「大勢の中で、何もしなくても、一人でいても孤独感を味わうことがない“場”(究極の居心地の場)」(河田珪子, 2016)ですが、目指す姿を初めて訪れる人に伝えるために次のような配慮がなされています。
運営に携わる河田珪子さんが次のように話されているように、初めて訪れる人には「できるだけ外回り」に座ってもらい、思い思いに居合わせている人々の姿を見てもらうことで、「色んな人がいていいんだっていうメッセージ」を伝えることが考えられています。そして、「実家の茶の間・紫竹」に迎えられた人は今度は迎える側の人となり、新たに訪れる人に対して「その人が居てもいいよというメッセージ」を伝えていく*3)。

「初めて来た人は、できるだけ外回りに座ってもらおう。そうすると、あんなことも、こんなこともしてる姿が見えてきますね。すると、色んな人がいていいんだっていうメッセージが、もうそこへ飛んでいってるわけですね。そっから始まっていくんです。」

「今度、迎える側は全ての人が、その人が居てもいいよというメッセージを出していくという。表情とか振る舞いで。みんな、どの人が来ても『よう来たね、ここにゆっくりしてね、居てもいいんですよ、好きなように過ごしてね』っていうメッセージを、みんなして出していく。」

(思い思いに過ごす人々)

「実家の茶の間・紫竹」でこのような配慮によって新たな人を迎え入れていることは、正統的周辺参加(Legitimate peripheral participation:LPP)として捉えることができるのではないかという意見をいただいたことがあります。

正統的周辺参加

正統的周辺参加(LPP)

正統的周辺参加(Legitimate peripheral participation:LPP)は、社会人類学者のジーン・レイブ(Jean Lave)と教育理論家・実践家のエティエンヌ・ウェンガー(Etienne Wenger)が、徒弟制の研究を通して見出した理論*4)。正統的周辺参加(LPP)においては、学習は知識や技術などを個人の中に貯め込んでいくことではなく、新参者が実践共同体(community of practice)に参加し、古参者になっていくプロセスに必然的に付随するものとして捉えられています。それでは、新参者は実践共同体にどのように参加するのか。それが、新参者は正統的に、かつ、周辺的に参加するということになります*5)。

「参加の正統性というのは所属の仕方の本質を定める形式であり、それ故に、学習にとって決定的条件であるばかりでなく、その内容の構成要素でもある。・・・・・・。周辺性が示唆するのは、共同体によって限定された参加の場における存在には複数の、多様な、多くあるいは少なく関わったりつつみ込んだりする仕方があるということである。周辺的参加というのは社会的世界に位置づけられていることを示すことばであり、変わりつづける参加の位置と見方こそが、行為者の学習の軌道(trajectories)であり、発達するアイデンティティであり、また、成員性の形態でもある。」(レイブ、ジーン ウェンガー、エティエンヌ, 1993)

ジーン・レイブとエティエンヌ・ウェンガーは正統的周辺参加(LPP)が向かうところを十全的参加(full participation)と捉えています。注意が必要なのは、正統的周辺参加(LPP)が向かうところは中心参加(central participation)でも完全参加(complete participation)でもないこと。中心参加と言うと、「共同体に個人の『居場所』に関しての中心(物理的にせよ、政治的にせよ、比喩的にせよ)が一つあることになってしまう」。完全参加と言うと「何か知識や集約的実践の閉じた領域があって、新参者の『習得』についての測定可能なレベルがあるかのようになってしまう」。ジーン・レイブとエティエンヌ・ウェンガーが中心参加でも完全参加でもなく、十全的参加と捉えているのは、「共同体の成員性の多様に異なる形態に含まれる多様な関係」を正当に扱うためです。

「実家の茶の間・紫竹」における正統的周辺参加(LPP)

正統的周辺参加(LPP)の向かうところは、が中心参加でも完全参加でもなく、十全的参加である。これは、「実家の茶の間・紫竹」にもあてはまります。

河田珪子さんが「サービスの利用者は1人もいない。いるのは『実家の茶の間』っていう場の利用者だけ。で、場は自分たちが、自分たちで作る」と表現しているように、「実家の茶の間・紫竹」では、当番やサポーターが訪れた人に対して、一方的にサービスを提供することはありません。

「お年寄りが生きてきた生活の歴史とか、みんな違うじゃないですか。得意なことも、環境も。だから画一的なことをすればするほど、サークルになっていくんですね。それが好きな人しか集まらない。何もしなければ、誰でも来れるわけでしょ。だからサービスの利用者は1人もいない。いるのは『実家の茶の間』っていう場の利用者だけ。場は自分たちが、自分たちで作る。それをそっと手助けしていく。」

実際、「実家の茶の間・紫竹」では当番やサポーターだけでなく、大工仕事や除雪をする人、野菜を届ける近くの農家の人、家で使わなくなったものをバザーに寄付する人をはじめ、多くの人々の協力がなされています。しかし、協力が強制されるわけでもなく、協力しないことで居心地の悪さを感じることもない。なぜなら、そのような場所は「大勢の中で、何もしなくても、一人でいても孤独感を味わうことがない“場”(究極の居心地の場)」(河田珪子, 2016)ではないからです。

このことは、「実家の茶の間・紫竹」では全員参加型のプログラムが一切行われていないことにも表れています。全員参加型のプログラムを行わない代わりに、囲碁、将棋、麻雀、オセロ、本、縫い物、折り紙、習字、絵の具など希望された物は何でも揃えられており、何をするのか、何をしないのかは一人ひとりが決めることになっています。

「実家の茶の間・紫竹」における参加のあり方は、一人ひとりが思い思いに居合わせているというもので、中心が一つあるわけでも、測定可能なレベルがあるわけでもない。そして、初めて訪れた人には正統的周辺参加(LPP)として「できるだけ外回り」に座ってもらうことは、十全的参加が具現化された光景を見てもらうことが考えられたものだと言えます。

ただし、ここで正統的周辺参加(LPP)に注目している目的は、「実家の茶の間・紫竹」における参加のあり方を正統的周辺参加(LPP)として捉えることができると指摘することだけではありません。

正統的周辺参加(LPP)においては、新参者が実践共同体に参加し、古参者になっていくプロセスに必然的に付随するものとして捉えられていました。このことは、居場所における介護予防を新たな視点から捉え直す手がかりを与えてくれると感じたことも、正統的周辺参加(LPP)に注目した理由です。

介護予防

通いの場

2015年4月から始まった介護予防・日常生活支援総合事業(新しい総合事業)に、通いの場が盛り込まれました。通いの場は介護予防の機能が期待されている場所で、次のように居場所をモデルとして生まれました。

「この新しい地域支援事業における『介護予防・日常生活支援総合事業』(以下、新しい総合事業)のなかに、『居場所・サロン』の取り組み(サービス)が盛り込まれています。新しい総合事業では、これを『通いの場』と呼んでいます。」

「『通いの場』というのは、平成27(2015)年度試行の地域支援事業で実施する一つの類型として厚生労働省が名づけた『居場所・サロン』のことですが、介護予防の効果を意図する事業の性質上、集う人には若干の制約があります。介護予防に役立つ効果がある場に人が繰り返し行ってほしいと願う気持ちが『通い』という表現になったのかと推測されます。」(さわやか福祉財団, 2016)

「実家の茶の間・紫竹」も通いの場として紹介されることがあります。
厚生労働省が「新型コロナウイルス感染症に気をつけつつ、高齢者の方々が健康を維持するための情報を紹介」することを目的として立ち上げたウェブサイト「地域がいきいき 集まろう!通いの場」(2020年9月11日開設)の「通いの場からの頼り」のコーナーに「実家の茶の間・紫竹」が「高齢者の居場所『地域の茶の間』は今、全国各地で取り組まれている通いの場の一つです」として紹介されています*6)。

「実家の茶の間・紫竹」が通いの場かどうかは議論があると思いますが、厚生労働省のウェブサイトの「通いの場からの頼り」で注目したいのは、河田珪子さんの「『紫竹』は介護予防のためにあるのではなく、結果的に介護予防となっているという居場所なのです」という言葉です。
河田珪子さんは次のようにも話されています。

「茶の間で一番大事にしているのは、人と人とのつながり、人と社会とのつながりの場だということです。ここに通うことで行く所がある楽しみ、誰かの役に立つ喜び、それが介護予防にもつながると思っていますので、・・・・・・」(河田珪子, 2020)

さわやか福祉財団(2016)でも、次のように「介護予防のための『通いの場』をつくることが目的なのではな」いと指摘されています。

「介護保険法の改正により新しい総合事業のなかで『通いの場』をつくることが求められていますが、介護予防のための『通いの場』をつくることが目的なのではなく、『居場所・サロン」づくりを通じた互助による助け合い、支え合い活動を生み出すことが目的であるということを意識することが大切です。」(さわやか福祉財団, 2016)

通いの場には、介護予防の機能を担うことが期待されている。けれども、通いの場は介護予防を目的として開かれるのではなく、結果として介護予防が実現される場所であるということになります。

介護予防

介護予防とは、「要介護状態の発生をできる限り防ぐ(遅らせる)こと、そして要介護状態にあってもその悪化をできる限り防ぐこと、さらには軽減を目指すこと」と定義されています(介護予防マニュアル改訂委員会, 2012)。
厚生労働省の「これからの介護予防」では「これまでの介護予防の問題点」が次のように指摘されています。

これまでの介護予防の問題点
○介護予防の手法が、心身機能を改善することを目的とした機能回復訓練に偏りがちであった。
○介護予防終了後の活動的な状態を維持するための多様な通いの場を創出することが必ずしも十分でなかった。
○介護予防の利用者の多くは、機能回復を中心とした訓練の継続こそが有効だと理解し、また、介護予防の提供者の多くも、「活動」や「参加」に焦点をあててこなかった。

これらの問題点を乗り越えるための具体的なアプローチの1つが「住民運営の通いの場」です*7)。

厚生労働省による『介護予防・日常生活支援総合事業(地域支援事業)の実施状況(平成30年度実施分)に関する調査結果(概要)』では全国の通いの場の状況についての調査が行われています。調査によれば、全国の通いの場は106,766ヶ所とされており、非常に多くの通いの場が開かれていることがわかります*8)。
通いの場における「主な活動内容」は「体操(運動)」で、52.8%の通いの場で行われています。2番目以降は「茶話会」が19.0%、「趣味活動」が16.9%、「会食」が4.7%、「認知症予防」が4.2%、「その他」が2.4%の順番になっており、「体操(運動)」を「主な活動内容」とする通いの場が圧倒的に多いことが明らかにされています。また、「主な活動内容」を「体操(運動)」とする通いの場の割合も、次のように年度が進むにつれ少しずつ増加し、2013年度に比べると2018年度は10%以上増加していることが明らかにされています。

  • 2013(平成25)年度:41.6%
  • 2014(平成29)年度:42.8%
  • 2015(平成27)年度:43.1%
  • 2016(平成28)年度:48.3%
  • 2017(平成29)年度:51.4%
  • 2018(平成30)年度:52.8%

厚生労働省は、「これまでの介護予防の問題点」の1つとして「心身機能を改善することを目的とした機能回復訓練に偏りがちであった」ことをあげていますが、ここで見た調査結果からは、通いの場は介護予防がもつ「心身機能を改善することを目的とした機能回復訓練」という側面に直接的に関わってくる「体操(運動)」のための場所という傾向を持っている。このことは、通いの場は介護予防を目的として開かれるのではなく、結果として介護予防が実現される場所であるという捉え方とやや距離があるように感じます。
結果としての介護予防を捉えるためには、介護予防を「心身機能を改善することを目的とした機能回復訓練」や「体操(運動)」とは全く別の視点から捉える必要があるのかもしれません。

ここで注目したいのが、正統的周辺参加(LPP)という視点です。

正統的周辺参加における結果としての介護予防

「実家の茶の間・紫竹」における参加のあり方は、正統的周辺参加(LPP)として捉えることができました。そして、正統的周辺参加における学習は、新参者が実践共同体に参加し、古参者になっていくプロセスに必然的に付随するものとして捉えられていました。そうだとすれば、結果としての介護予防とは、正統的周辺参加における学習として捉えることができるのではないか。

ジーン・レイブとエティエンヌ・ウェンガーによる正統的周辺参加(LPP)の書籍の翻訳者である認知心理学者の佐伯胖(1993)は「訳者あとがき:LPPと教育の間で」の中で学習について次のように指摘しています。

「学習とは人びとと共同で、社会で、コトをはじめ、なにかを作り出すという実践の中で『やっていること』なのだから、学習だけを社会的実践の文脈から切り離して、独自の目標とすべき対象活動ではない。したがって『勉強』をする、というのはおかしい。何かをするときに、『勉強』が結果的にともなっている、というのが本来の学習なのだ。」(佐伯胖, 1993)

ここで、「学習」を「介護予防」に、「勉強」を「介護予防のための活動」に置き換えると、「実家の茶の間・紫竹」における結果としての介護予防そのものの表現となります。

「介護予防とは人びとと共同で、社会で、コトをはじめ、なにかを作り出すという実践の中で『やっていること』なのだから、介護予防だけを社会的実践の文脈から切り離して、独自の目標とすべき対象活動ではない。したがって『介護予防のための活動』をする、というのはおかしい。何かをするときに、『介護予防のための活動』が結果的にともなっている、というのが本来の介護予防なのだ。」

佐伯胖(1993)は教育の問題を「考える糸口」として、正統的周辺参加(LPP)が学習をどのように捉えているかを次の6つに整理しています。

①学習は、教育とは独立の営みである。
②学習は、社会的実践の一部である。
③学習は、参加である。
④学習は、アイデンティティの形成過程である。
⑤学習は、共同体の再生産、変容、変化のサイクルの中にある。
⑥学習をコントロールするのは、実践へのアクセスである。
※佐伯胖(1993)より作成。一部表記を変更している。

ここで再び、「学習」を「介護予防」に、「教育」を「介護予防サービスの提供」に置き換えると次のようになります。

①介護予防は、介護予防サービスの提供とは独立の営みである。
②介護予防は、社会的実践の一部である。
③介護予防は、参加である。
④介護予防は、アイデンティティの形成過程である。
⑤介護予防は、共同体の再生産、変容、変化のサイクルの中にある。
⑥介護予防をコントロールするのは、実践へのアクセスである。

「実家の茶の間・紫竹」における結果としての介護予防とは、介護予防のためのサービスを利用することとは独立したものであり、「人びとと共同で、社会で、コトをはじめ、なにかを作り出すという実践の中で『やっていること』」である。それは、「される側」/「見る側」ではなく「する側」に立って、「当人がそこに属している、あるいは属したいと願っているなんらかの『共同体』」に参加することである。これは、「実家の茶の間・紫竹」において「サービスの利用者は1人もいない。いるのは『実家の茶の間』っていう場の利用者だけ。場は自分たちが、自分たちで作る」ことが大切にされていることにつながります。

結果としての介護予防とは、新参者が次第に古参者になっていくように、「『みんな』との共有と公的承認のなかで、自分の役割がはっきりしてくるし、また、それがどんどん『十全的なものに』展開していく」プロセスであり、新たな新参者を迎え入れるプロセスである。これは、「実家の茶の間・紫竹」に初めて訪れる人には「できるだけ外回り」に座ってもらい、思い思いに居合わせている人々の姿を見てもらうことで「色んな人がいていいんだっていうメッセージ」を伝えること、そして、迎えられた人は今度は迎える側の人となり、新たに訪れる人に対して「その人が居てもいいよというメッセージ」を伝えていくことと重なっています。

それでは、介護予防を「心身機能を改善することを目的とした機能回復訓練」や「体操(運動)」などのサービスを提供することとは独立の営みだとすれば、居場所のスタッフ、あるいは、専門家の役割はどこにあるのか。これが、佐伯胖(1993)が6点目にあげている実践へのアクセスに関わってきます。佐伯胖は次のように指摘しています。

「教師がやらせるから学ぶのではない。教師がホンモノの世界(円熟した実践の場)をかいま見させ、そこへの参加の軌道(trajectories)を構造化する一方、子どもはその世界との漸進的交流で、自ら学んでいくときの『共同参加者』となる、ということになろう。」(佐伯胖, 1993)

佐伯胖の指摘は、「ホンモノの世界(円熟した実践の場)をかいま見させ」ること、「参加の軌道(trajectories)を構造化する」こと、「共同参加者」となることの3つの側面から捉えることができます。そして、これら3つの側面は「実家の茶の間・紫竹」における配慮に見出すことができます。

繰り返しご紹介しているように、「実家の茶の間・紫竹」に初めて訪れる人には「できるだけ外回り」に座ってもらうことが意識されていました。初めて訪れた人が目にするのは、同じプログラムに参加している人々の姿ではありません。プログラムに参加することなく、思い思いに居合わせている人々の姿。そして、地域での暮らしとは、プログラムへの参加ではなく、思い思いに居合わせることだとすれば*9)、初めて訪れる人に「できるだけ外回り」に座ってもらうことは、「ホンモノの世界(円熟した実践の場)をかいま見させ」ること」と捉えることができます。
「実家の茶の間・紫竹」では、全員参加型のプログラムを提供しないことで、自動的に人々が思い思いに居合わせている状況が成立してるわけではありません。例えば、入りやすいように玄関の扉をいつでも開けておくこと、テーブル配置、茶の間のよく見える位置に「その場にいない人の話はしない(ほめる事も含めて)」、「プライバシーを訊き出さない」、「どなたが来られても『あの人だれ!!』という目をしない」という約束事を掲示すること、誰かの代わりに食事を勝手に取り分けないことなど、数多くの「居心地のいい場づくりのための作法」(河田珪子, 2016)が配慮されている。これらの配慮は、新参者が十全的参加するための軌道を構造化したものだと捉えることができます。
さらに、「実家の茶の間・紫竹」では、当番やサポーターが訪れた人に対して、一方的にサービスを提供することはありません。「サービスの利用者は1人もいない。いるのは『実家の茶の間』っていう場の利用者だけ。で、場は自分たちが、自分たちで作る」ことが大切にされている「実家の茶の間・紫竹」においては、当番やサポーターも訪れた人にとっての「共同参加者」になっているということです。

つまり、「実家の茶の間・紫竹」を「大勢の中で、何もしなくても、一人でいても孤独感を味わうことがない“場”(究極の居心地の場)」(河田珪子, 2016)としてしつらえることそのものが、結果としての介護予防を実現するための実践へのアクセスということになります。

ここで議論してきたことは、一般的に介護予防や通いの場に対してもたれるイメージとは違うかもしれません。実際、「実家の茶の間・紫竹」を見学した人の中には、この場所は何もしていないという評価をする人がいるということです。恐らく、「心身機能を改善することを目的とした機能回復訓練」や「体操(運動)」などのサービスが提供されていないことが、そのような評価につながっているのだと思います。しかし、正統的周辺参加(LPP)として「実家の茶の間・紫竹」における参加を捉えるならば、何もしていない「ように見える」ことそのものが、結果としての介護予防を実現しているということになります。この視点を持った時、初めて「実家の茶の間・紫竹」で行われていることの可能性を最大限に捉えることができると考えています。


■注

  • 1)「実家の茶の間・紫竹」の詳細は河田珪子(2016)、田中康裕(2021)などを参照。
  • 2)新潟市「地域包括ケア推進モデルハウスの取り組み」のページより。
  • 3)これが可能なのは、「実家の茶の間・紫竹」では迎える側の内部の人と、新たにやってくる外部の人が存在しているからである。居場所に内部の人と外部の人がいることについては、こちらを参照。
  • 4)ただし、ジーン・レイブとエティエンヌ・ウェンガーが指摘するように、正統的周辺参加(LPP)は徒弟制に限らず、あらゆる活動に見出されるものである。
  • 5)ジーン・レイブとエティエンヌ・ウェンガーは正統性、周辺性、参加という3つの側面について、「そのそれぞれの側面は他の側面の本質を明らかにするために不可欠であり、孤立したものとしては考えられない」と指摘している。
  • 6)「実家の茶の間・紫竹」の紹介記事は、2021年2月2日にオンラインで取材した内容に基づくものである。
  • 7)厚生労働省の「これまでの介護予防の問題点」では、これからの介護予防の具体的アプローチとして、「住民運営の通いの場」に加えて、「リハ職等を活かした介護予防の機能強化」、「高齢者の社会参加を通じた介護予防の推進」の3つがあげられている。
  • 8)『文部科学統計要覧(令和3年版)』によれば、2020年5月1日時点の全国の小学校は19,525校であり、通いの場は小学校の約5倍あることになる。日本フランチャイズチェーン協会の「コンビニエンスストア統計調査月報 2021年10月度」によれば、2021年10月時点の全国のコンビニエンスストアは55,938店であり、通いの場はコンビニエンスストアの約2倍あることになる。
  • 9)河田珪子さんは、地域における助け合いにおいては、「矩(のり)を越えない距離感」を大切にする関係を築くことが必要だと考えている(田中康裕, 2021)。

■参考文献

※「アフターコロナにおいて場所を考える」のバックナンバーはこちらをご覧ください。

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