『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

「ひがしまち街角広場」と「街角」の光景(アフターコロナにおいて場所を考える-34)

少し前のことになりますが(2022年4月8日)、千里ニュータウン新千里東町の「ひがしまち街角広場」を訪問しました。

「ひがしまち街角広場」は新千里東町の近隣センターの空き店舗を利用して、2001年9月30日にオープンしたコミュニティカフェで、オープンから住民ボランティアによる運営が続けられてきました。近隣センターの再開発により、2022年5月末で運営を終了することが決まっています。

千里ニュータウンの新千里東町に、なぜ「ひがしまち街角広場」のような場所が必要だったのか。初代代表は次のように話しています。

「ニュータウンの中には、みんなが何となくふらっと集まって喋れる、ゆっくり過ごせる場所はありませんでした。そういう場所が欲しいなと思ってたんですけど、なかなかそういう場所を確保することができなかったんです。」

「ひがしまち街角広場」は「みんなが何となくふらっと集まって喋れる、ゆっくり過ごせる場所」として運営されており、プログラムは行われていません。このような運営のあり方はオープンから20年以上を経た今でも継続されており、この日も訪れた人はお茶を飲みながら、来訪者同士で話をしたり、スタッフと話をしたりして過ごしておられました。新千里東町にはこのような場所が求められ続けていることがわかります。

先に書いた通り、新千里東町の近隣センターは再開発が進められており、既に他の店舗は既に新しい近隣センターに移転。「ひがしまち街角広場」も2021年6月から運営を縮小し、今は水・木曜は11~16時、金曜は11~13時の運営となっています。

この日は金曜で13時までの運営でしたが、13時の直前まで過ごしておられる方がいました。「ひがしまち街角広場」では以前から、運営終了時間の直前まで過ごしている人がいましたが、新型コロナウイルス感染症が完全に収束していない現在でもこの姿は変わっていません。13時を過ぎてからやって来た方にはコーヒーを飲むかと尋ねて、希望した人にはコーヒーを出しておられました。スタッフの無理のない範囲で柔軟に対応することも、以前から変わらない「ひがしまち街角広場」の姿です。


何人かのスタッフが「竹林清掃・地域交流会」の受付のため表に出ていたところ、通りがかった人がスタッフに声をかけたり、逆に、スタッフが通りがかった人に声をかけたりしたことがきっかけで、立ち話が始まる光景が見られました。表に出したテーブルに座ってコーヒーを飲んだり、テーブルの周りで立ち話をしたりする人々。近隣センターの広場で何人かの小学生がボールで遊んでおり、何度か「ひがしまち街角広場」にボールが転がってくるという出来事がありました。ボールを投げ返してもらって、「ありがとうございます」とお礼を言う子どもたち。
このような光景を見て、人がそこに居ることが、新たな人との関わりを生み出すのだということに気づかされました。当たり前のことかもしれませんが、そこに声をかけていいと思える人が居ること、あるいは、(転がったボールを投げ返してもらうような)誰かに声をかける状況が生まれること。このような光景を見て、「街角」という表現が思い浮かびました。

「街角」は、「ひがしまち街角広場」という名称にも入っている言葉ですが、一般的に「街角」と表現できる光景には次のような特徴があるように思います。

  • ①屋外であること。「ひがしまち街角広場」の場合は、近隣センターのアーケードという半屋外の空間。
  • ②建築のスケールが、人に対して大き過ぎないこと。「ひがしまち街角広場」の場合、近隣センターの建物は2階建で、その前は歩行者専用道路になっている。
  • ③人の属性にバラつきがあること。「ひがしまち街角広場」の場合は、高齢の世代が中心だが、女性も男性もいて、そこに子どもたちもいる。
  • ④過ごし方が決められてないこと。言い換えれば、みなが同じことをして過ごしていないこと。「ひがしまち街角広場」の場合は、先に紹介したようにプログラムが行われていないため、スタッフも来訪者も思い思いに過ごしている。

「街角」と表現できる光景の特徴をあげましたが、もう1つの大切な特徴があることに気づきました。それは、「街角」とは周りからの観察者の視点があってはじめて成立すること。
「ひがしまち街角広場」の光景を「街角」だと感じたのは、周りから観察していた「私」(=筆者)であり、「私」がこのような光景に自然に居合わせることができたこと自体に意味がある。先にあげた4点は、周りからの観察者である「私」がそこに自然に居合わせることを可能にする条件として捉えることができます*1)。

  • ①屋外であるため、周りからその光景を観察することができる。このことは、周りから観察できるならば、「街角」の光景は屋内でも成立する可能性があるということ。
  • ②建築のスケールが人に対して大き過ぎないため、観察者はそこに近づくことができる。言い換えれば、「周りから」という距離をとりながら、そこに居合わせることができる。
  • ③人々の属性にバラつきがあるため、観察者がそこに居合わせても不自然とは見なされない。
  • ④過ごし方が決められていないため、周りから観察するという過ごし方も許容される。もし過ごし方が決められていれば、周りから観察するということすら不可能である。

建築学者の鈴木毅(2004)は「人間がある場所に居る様子や人の居る風景を扱う枠組み」として「居方」という概念を提示しています。
「居方」で重要なのは「あなたがそこにそう居ることは、私にとっても意味があり、あなたの環境は、私にとっての環境の一部でもある」(鈴木毅, 2004)と指摘されているように、観察者である「私」にとっての意味が大切にされていること。つまり、鈴木毅による「居合わせる」、「たたずむ」、「行き交う」、「あなたと私」などの全てのボキャブラリーは、観察者としての「私」の視点から表現されたものだということです。

「様々な居方を検討して分かってきたことは、他人がそこに居ることの意味である。・・・・・・、ある場所に人が居るだけで、その人と直接のコンタクトがなくても、彼を見守っている者には様々な情報・認識の枠組みが提供されるのである。中でも重要なことは、ある人は、(自分自身では直接みえない)自分がその場に居る様子を、たまたま隣りにいる他者の居方から教えてもらっているという点である。つまり、他者と環境の関係は、観察者自身の環境認識の重要な材料を提供しているのである(図5-1)。言ってみれば、「あなたがそこにそう居ることは、私にとっても意味があり、あなたの環境は、私にとっての環境の一部でもある」ということになる。」(鈴木毅, 2004)

「街角」においては、周りからの観察者が自然なかたちでそこに居合わせることができる*2)。これは、周りの観察者が「ここはオープンな場所だと感じることができる」と感じることができるという意味でオープンだということ。「ひがしまち街角広場」が地域にもたらしたものは多いですが、このような意味でのオープンな場所を生み出したことも、その1つに加えるべきだと考えています。そして、


新型コロナウィルス感染症の感染防止のため、「不要不急」の外出を控えることが要請されました。その結果、「ひがしまち街角広場」のような居場所を訪れることは「不要不急」だと見なされることにました*3)。今でもこのような見方が完全に払拭されたわけではないと思います。

もちろん、感染防止が必要であることは言うまでもありませんが、同時に、居場所を訪れることが「不要不急」と見なされることには納得できない思いを抱いていました。その理由として、そもそも何が「要」で「急」であるかは個々人によって異なること、「不要」で「不急」であることにも意味があることなどを考えましたが、「街角」という観点からは次のことが言えるように思います。

新型コロナウィルス感染症が発生した当時、周りの他者は感染者ではないかという疑心暗鬼に陥っていたことが思い起こされます。社会とは他者への(根拠のない)信頼をベースとして成立するものだと考えれば、新型コロナウィルス感染症は社会の基盤を掘り崩していった。人々が他者に対して疑心暗鬼になり、他者との関わりを控えようとし、家に籠るような状況では、周りの観察者が自然なかたちで居合わせるという「街角」は成立しなかった。

こうした状況の中で、新型コロナウィルス感染症が発生してから、ストリータリー(Streetery)やパークレット(Parklet)などの屋外のパブリックな場所が、アフターコロナにおいては重要になるのではないかと注目してきました。今振り返れば、これらの場所に注目したのは、観察者としての「私」が自然にそこに居合わせることができるという「街角」に、他者への信頼が成立する可能性があると感じたから。今振り返ればそのように言えるかもしれません。


■注

  • 1)鈴木毅は魅力的な写真によって「居方」を表現しているが、写真を資料として居方を考察することに関して次のように記している。「佐伯胖氏、上野直樹氏には「そのシーンを撮ろうとした自分、撮ることができたこと自体の意味を考えるべきだ」をはじめとして貴重なアドバイスを戴いた」(鈴木毅, 1994)。つまり、観察者としての「私」が自然に写真を撮影できるというかたちで、そこに居合わせたことが重要ということ。この記事に掲載している筆者が撮影した「ひがしまち街角広場」の写真も、まさにこれにあてはまる。なお、筆者は「居合わせる」が全ての「居方」の基本になると捉えている。詳細はこちらの記事を参照。
  • 2)「居方」においては周りからの観察者の視点が重要であることを考えれば、「街角」の「居方」のボキャブラリーの1つと言えるかもしれない。
  • 3)実際、「ひがしまち街角広場」は大阪府に緊急事態宣言、まん延防止等重点措置が発令されていた時期には臨時休業とされた。

■参考文献

  • 鈴木毅「人の「居方」からみる環境」(1994)・『現代思想』1994年11月号
  • 鈴木毅(2004)「体験される環境の質の豊かさを扱う方法論」・舟橋國男編『建築計画読本』大阪大学出版会

※「アフターコロナにおいて場所を考える」のバックナンバーはこちらをご覧ください。

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