『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

当事者になっていること/当事者意識をもってもらうこと(アフターコロナにおいて場所を考える-51)

近年、各地に開かれている居場所と、従来の施設との違いの1つとして、当事者と利用者という違いがあると捉えています(田中康裕, 2021)。施設では、誰がどのように運営するかがあらかじめ決まっていたり、運営側が運営のあり方を決めたりすることで、主客の関係がサービスを提供する側と提供される側に固定される傾向がある。

居場所でも、ある時間帯に当番を担当することが決められている人がいるという点で、主客の関係が全くないわけでありませんが、その関係は緩やかなものになっています。
通常の商業施設では、(規模の大きな商業施設になればなるほど)来客が運営を手伝うということは考えにくいと思います。けれども、居場所ではそうでない。例えば、千里ニュータウンの「ひがしまち街角広場」では、時間がある時は当番が来訪者と一緒に話をしたり、忙しい時は来訪者が飲み物を運ぶのを手伝ったりする光景が見られました。岩手県大船渡市の「居場所ハウス」でも、当番でない人が、お茶をいれたり、食器を洗ったり、差し入れをしたりすることが行われてきました。

居場所においては、当番と来訪者は同じ役割を担っているわけでありません。けれど、主客の関係は完全に固定されておらず、それぞれが自分にできる役割を担うことで、場所をつくりあげる当事者になれるという意味で、主客は同じ立場あると考えることができます。


少し前、以上のような話をしたところ、「当事者意識をもってもらうためにはどうすればいいか?」という質問をいただきました。この質問に対して、当事者になっていることと、当事者意識をもってもらうこととは区別して議論する必要があるのではないかという話をしました。

当事者意識をもってもらうというと、意識が先行してしまいます。それでは、居場所において、当番でないのに飲み物を運んだり、お茶をいれたり、食器を洗ったり、差し入れをしたりする人は、当事者意識をもっているからそのように振る舞っていると言えるのか。そうかもしれませんが、意識のもち方は本人に尋ねるしかありません。さらに、尋ねることができる状況になったとしても、「あなたは当事者意識をもっていますか?」という尋ね方は答えるのが難しく、意識のもち方を尋ねるのも容易でありません。
このような状況に対して自分自身は、居場所において、当番でない人が飲み物を運んだり、お茶をいれたり、食器を洗ったり、差し入れをしたりする光景を目の当たりにして、このように振る舞う人々のことを「当事者になっている」と後付けで表現してきました。

先に書いた通り、このように振る舞っている人々が、当事者意識をもっているかどうかはわかりませんが、居場所を作りあげる当事者として振る舞っているように見える。
両者の違いは微妙ですが、まず意識をもってもらうことでなく、事後的には当事者だと見えてしまうように振る舞う状況が成立することに焦点をあてること、言い換えれば、人の意識でなく、場所のあり方に焦点をあてることにこそ、居場所の特徴があるのではないかと考えます。

それでは、人々が、事後的には当事者だと見えてしまうように振る舞う状況はどのように生まれるのか。(特に運営に関わる側が)相手が何かしようとした時に、先回りして断らないことが大切なように思います。例えば、当番でない人が食器を洗おうとした時に、運営に関わる側が「当番でないのに食器を洗わせるのは申し訳ない」という気持ちを抱くのは自然かもしれません。そこで、「私が洗うから、座ってお茶でも飲んでいて」と対応すれば、相手をお客さん扱いにしてしまうことになる。小麦粉や砂糖などを持って来てくれることに対して、「重いし、万が一転倒したら大変だから」と断ろうとするのも自然かもしれません。いずれも、善意に基づくものですが、善意が居場所に関わるための芽を摘み、主客の関係を固定化することもある。これが、居場所の運営の難しいところでもあると感じます。

ここでいう善意とは、相手の振る舞いに先回りするもの。先回りするのを少し待って、相手の振る舞いを受け入れること。楽観的だと思われるかもしれませんが、その結果として、人々が居場所を作りあげる当事者であるかのように振る舞っているように見える状況が成立するように思います。
人々が当事者意識をもっているかどうかはわからないとしても、居場所を訪れると、当事者だと見えてしまうように振る舞う人々の姿が目に飛び込んでくること。当事者意識自体は目に見えませんが、振る舞いは目に見えるものであるため、それを見た他の人への波及効果として「自分もこのようなかたちで居場所に関わっていいのだ」ということを伝えることができる可能性がある。「実家の茶の間・紫竹」の代表の方が次のように話されているように、他者の姿が目に見えることこそが重要なのだということです。

「初めて来た人は、できるだけ外回りに座ってもらおう。そうすると、あんなことも、こんなこともしてる姿が見えてきますね。すると、色んな人がいていいんだっていうメッセージが、もうそこへ飛んでいってるわけですね。そっから始まっていくんです。」(田中康裕, 2021)


■参考文献

※「アフターコロナにおいて場所を考える」のバックナンバーはこちらをご覧ください。

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