戦後の高度経済成長期、多くの人々が地方から都市へと集まってくることで、都市では住宅需要が増大し、既成市街地周辺は十分な基盤整備がなされないままスプロール的に開発されていきました。このような状況に対応して、良好な住環境を備えた大量の住宅を供給するために計画・開発されたのが千里ニュータウンです。
千里は大阪都心から北に約15km、吹田市と豊中市にまたがる千里丘陵地に計画・開発された日本で最初の大規模ニュータウンです。1958(S33)年に大阪府の施策としての開発が決定し、1961(S36)年に起工、万国博覧会(大阪万博)が開催された1970(S45)年に事業が終了しました。わずか10年足らずの期間に北大阪の副都心としての機能も併せもつ面積1,160ha(吹田市域791ha、豊中市域369ha)、計画人口15万人、計画住戸数3万戸(実施段階では12万人、3万7330戸。建設末期の1971年5月時点では12万人、4万戸)の住宅都市を建設したこと自体が偉業だといえますが、千里ニュータウンには、大阪府と多くの専門家が総力をあげて取り組み、新しい理論と提案に基づいて建設された先進的・総合的な「実験都市」という側面もあります。
- 開発面積:1,160ha(吹田市:791ha、豊中市:369ha)
- 計画人口:15万人(実施段階では12万人)
- 計画住戸数:3万戸(後に3万7330戸、建設末期の1971年5月時点では4万戸)
千里の住区
千里ニュータウンは吹田市域8住区、豊中市域4住区、あわせて12住区から構成されています。A〜Lの12住区に分けられて計画され、C住区から順に半時計まわりに入居が進みました。
当初、1つの住区は2つの分区で構成するように考えられ、分区ごとに近隣センターが配置される計画でした。この計画に基づき、初期に開発された高野台ではメインとサブの2つの近隣センターが配置されています。しかし、電気冷蔵庫の普及や自家用車の保有率の高まりといった生活の変化により、頻繁に買物に行かなくても済むようになったことから、近隣センターは各住区に1つあれば十分だと考えられるようになり、結局、サブセンターが実現したのは高野台だけでした。なお、後期に開発された竹見台と桃山台では、2つの住区の近隣センターを隣接して配置することにより、近隣センターの規模・機能の充実を図るという試みも行われています。
小学校は1住区に1校設置されましたが、児童の増加に対応するため、北千里小学校(1973開校。2009閉校)、南竹見台小学校(1978開校。2003年に竹見台小学校・南竹見台小学校が統合し、千里たけみ小学校となる)と1つの住区に複数の小学校が存在する時期もありました。
近隣センター一覧
吹田市域 | 豊中市域 |
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A:津雲台 S39(1964)年08月 B:高野台 S38(1963)年06月 C:佐竹台 S37(1962)年09月 D:桃山台 S42(1967)年05月 E:竹見台 S43(1968)年01月 F:青山台 S40(1965)年05月 G:藤白台 S40(1965)年04月 H:古江台 S39(1964)年05月 | I:新千里北町 S41(1966)年04月 J:新千里東町 S41(1966)年05月 K:新千里西町 S43(1968)年03月 L:新千里南町 S44(1969)年07月 |
- 表内の年月は近隣センターの開業時期を表わす。
- 佐竹台と高野台にはサブ近隣センターが開設された(ただし、佐竹台のサブ近隣センターは既に廃止)。
- 上新田は千里ニュータウン開発から除かれたエリア。
地区センター一覧
吹田市域 | 豊中市域 |
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南地区センター S38(1963)年08月 北地区センター S42(1968)年03月 | 中央地区センター S45(1970)年03月 |
- 表内の年月は店舗の開業時期を表わす。
千里ニュータウンについては以下のページもご覧ください。
- 近隣住区論
- 団地の住棟配置
- 千里ニュータウンの団地(集合住宅)
- 千里ニュータウン略年表
- 新千里東町略年表
- 千里ニュータウンの人口・高齢化率
- 千里ニュータウンへのアクセス・交通
- 千里ニュータウンの公園・池・橋
- 千里ニュータウン車窓からの光景
- 千里ニュータウンのまち歩きマップ一覧
千里ニュータウンに関する最近の記事はこちらをご覧ください。
- 参考:山地英雄『新しき故郷:千里ニュータウンの40年』NGS, 2002
- 参考:住田昌二編『日本のニュータウン開発:千里ニュータウンの地域計画学的研究』都市文化社, 1984
(更新:2021年12月26日)