明日(2019年8月15日)は74回目の終戦の日。普段生活しているとついつい忘れてしまいがちですが、74歳以上の方々は第二次世界大戦中を生きたということ。特に80代以上の方の中には、戦時中・戦後の鮮明な記憶をお持ちの方がおられ、「居場所ハウス」でもふとしたきっかけで当時の話になることがあります。
これまで何人かの方から、大船渡市末崎町の戦時中の話として次のような話を聞きました。
- 釜石艦砲射撃の音が聞こえた(*1945年7月14日のアメリカ海軍、1945年8月9日のアメリカ・イギリス海軍による釜石への砲撃)
- 子どもたちは手に持った旗を振り、歌を歌いながら、出兵する兵士を細浦駅まで見送った。戦死して戻って来た人を細浦駅まで迎えに行ったこともある
- 学校では「勤労奉仕」の時間があった。子どもたちは10人ぐらいずつグループになり、(出兵した人の家の)稲刈り、麦刈りなどを手伝いに行った
- 麦刈りをしている時に、空襲警報がなったこともある
- 飛行機から撃たれた機関銃の弾が「バラバラバラバラ」と家の裏山に飛んできたことがある
戦時中、戦後は収穫したお米が全て「供出」(きょうしゅつ)にとられたため、食糧不足でサツマイモやカボチャの蔓も食べたということです。昔は山を起こして畑にしていったけど、今は耕作する人が減り畑が山に戻っている、と話されているのも聞いたことがあります。
戦後も食糧不足が続き、ある女性からは高等小学校2年(*今の中学2年)の時に、内陸の水沢までヤミ米を買いに行ったという話も聞きました。
- 母親は下の弟妹の育児がいたため、自分がヤミ米を買いに行った
- 家から魚を持って細浦駅まで歩き、細浦駅から汽車に乗車。一ノ関で乗り換え、水沢に向かった
- 魚をお米と交換し、再び汽車で細浦駅へ。帰宅は夜中の10〜12時になることもあった
- 末崎町の道路は今のように舗装されておらず、馬車が通るくらいの幅しかなかった。夜は「中村」(という屋号の家)の森を歩くのが怖かった
- ヤミ米は警察に見つかると没収されるため、お米を隠すための袋を縫い込んだ服を内側に着込んでいた
ほんの少し前まで日本は戦争をしていたこと、そして、戦争があれば戦時中・戦後を生きざるを得ない子どもが出てくるという当たり前のことに改めて気づかされます。
「90年生きてたら色々な節があったけど、今が一番いいんでないの? 戦争もないし。食べ物もあるし。」
水沢までヤミ米を買いに行ったという女性は、このように話されていたのが忘れられません。