先日読んだ本の中に次のようなことが書かれていました。
「思い」というのは、「言葉にできないことがある」という事況そのものを言い換えた語にすぎません。「思い」が言葉の前にあったわけではありません。言葉を発したあとの「その言葉では汲み尽くされていない何かがまだ残っている」という感覚が導き出したものです。いっそ「幻影」であると申し上げてもよい。
*内田樹『街場の教育論』ミシマ社 2008年
最近、雑誌の原稿を書いていましたが、文章を書く経験もまさにこの指摘の通りだと思わされました。
文章を書く時はいつも書いては直し、書いては直し・・・、ということを締め切り直前まで延々と続けています。
内田氏が指摘するように、文章を書くことは、頭の中にある書きたいことを文字に変換していく作業ではない。自分が文章を書いている時の経験を振り返れば、最初から完全な文章が頭の中にあるわけではありません。
文章を書いていると、常に何かを書き足りておらず、同時に、常に何かを書き過ぎている気がしてくる。でも、そんな書き足りないという感じ、書き過ぎたという感じからのズレを僅かでも小さくすることによって、自分が何を書きたかったのかがわかる、ということかもしれません。
自分が書きたかったことは、文章を書く行為を通して事後的に立ち現れてくる。
建築家の後藤武氏もデザインという行為について同じようなことを書かれていました。
どこから始めるかは決まっていない。その時々の状況によって、おぼろげな直感から第一歩を踏み出す。与えられる条件がかたちをけずり、膨らませたりしながら、手を進ませる。手を動かすことが、つぎの手を動かす先を決定する。ただ先に進まなければ、可能性も限界も見出せないゲームのような感覚がある。ある程度進んだところで、振り出しに戻る。また一から、別の道を進み始める。こうしていくつものスタディが生まれ、絶対的な判断基準は持てないままに、取捨選択をし、案を絞り込んでいく。
デザインのスタディは、こうして進んでいく。手を尽くして、何か大きなブレイクスルーがくることを待つような感覚がある。その作業を振り返ってみれば、作るというよりもこわしていることに大半の労働を費やしているようにも見える。ある程度にまで固まっていた思考の軌跡を、逆方向にたどりながら、別の道筋を探していく過程で、別の案にたどり着いていく。作ることはこわすことの先にある。きれいにこわすことができた時に初めて、新たな局面を目にすることができる。その意味で、デザインは引き算であると思う。
*後藤武「始まりと終わり」・後藤武 佐々木正人 深澤直人『デザインの生態学』東京書籍 2004年
書きたいこと、デザインしたいことを、具体的な行為を通して事後的に立ち現れてくるものだと捉えること。その方が、人間というものを深く捉えているような気がします。
校正を読み返していると、まったく違ったものに書き直したいという欲望にとらわれるのだが、・・・・・・
*後藤武「始まりと終わり」・後藤武 佐々木正人 深澤直人『デザインの生態学』東京書籍 2004年
校正の段階になると、「まったく違ったものに書き直したいという欲望にとらわれる」気持ちもわかる気がします。
(更新:2020年3月13日)