『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

啓蒙主義以降のフィールドワーク

千里ニュータウンの「ひがしまち街角広場」のように、地域の人たちが開き、運営している場所を見るたびに、建築計画学の専門家の役割って一体何だろうかと考えてしまいます。このようなことを考えながら読んでいた本の中で、次のような文章を見つけました。

まず、科学的真理が蓄積していけば、啓蒙が進むと考える進歩(勝利者)史観は、クーンを待つまでもなく、支持されない。なぜなら「事実」はそもそも背後にある理論や研究者のパラダイムから構築される以上、当該研究者の立場から独立した真理はありえないからだ。したがって、研究者から独立した真理や事実の積み重ねによって科学が進歩し、その結果、社会が進歩するというのは、幻想にすぎない。むしろ、具体的にどのような科学研究が誰によって担われているのか、そしてその背後にある理論的前提やパラダイムがどのような社会的・経済的関係に結びついているのかといったことが問題になる。
すなわち、ひとことでいえば、科学それ自体が複雑な権力のメカニズムの内部にあり、権力から自由な超越的真理の場に座した批判的装置ではないということだ。
*山田富秋「フィールドワークのポリティックス」・好井裕明 桜井厚『フィールドワークの経験』せりか書房 2000年

建築計画学についても、「具体的にどのような科学研究が誰によって担われているのか、そしてその背後にある理論的前提やパラダイムがどのような社会的・経済的関係に結びついているのかといったこと」を明らかにする作業が必要なのだろうと感じています。

それでは「啓蒙主義以降」の私たちには、何ができるのだろうか? その答えは、すでに説明したことのうちにある。まず、権力は外部にあって実体化できるレヴァイアサンのような怪物ではないということが重要だ。つまり、権力は具体的なコンテクストにおける言説の編成に沿って働くのだから、予定調和的に先取りされた権力効果というものは存在しないということになる。逆に言うと、「いま、ここ」において権力が編成されていくにつれて、権力作用が現出するだけなのだから、どのような権力が産出されるかはつねに予測不可能だということだ。ということは、権力の編成と同時に多元的な抵抗点も産出されることになる。そして二つ目は、権力としての「真理の効果」は言説編成の内部において産出される以上、啓蒙主義が夢想したような新しい、より真理に近い言説を提示することによっては、権力に抵抗することはできないということである。ということは、現在そこにある言説編成の中に入り込み、それを構成する要素を編み直すことが可能になる。
では、具体的なコンテクストにおける言説編成に入り込んで、それを編み直す方法とは何だろうか? 私はそれこそが微細なフィールドワークであり、その成果がエスノグラフィーにほかならないと考える。その意味で、「啓蒙主義以降」のフィールドワークは、エスノメソドロジーが考えるように、自明視された日常を権力作用によって編成されたものとして問い直すことから出発する。フーコーが自分のアイデンティティを疑うことから、政治的行為が始まると言ったように、調査者は、自分がフィールドにおいてどのような権力関係の布置に組み込まれているのか批判的(リフレクシヴ)に分析することを仕事にする。こうして、調査という行為は、自明視された日常の権力を組み替えるという意味で「政治的行為」なのである。
*山田富秋「フィールドワークのポリティックス」・好井裕明 桜井厚『フィールドワークの経験』せりか書房 2000年

つまり、フィールドワークは、知識=権力による経験のポリティカルな編成を「いま、ここ」で脱構築する実践になる。つまりフィールドワークは一般性へと回収され固定した現実を、完結することがない対話へともたらすひとつの技術なのである。
[「啓蒙主義以降」の]フィールドワークの実践とは、調査者がどのような位置から自己の経験を語っているのか、そして、それがどのような文脈において、誰に対して語られているのか、対話的に明らかにしていくことである。それは調査者の語りを「真理」として物象化しないための方法でもある。したがって、調査者が一度実践した批判を脱文脈化して固定したり、あるいはそれを恒常的な「真理」として祭り上げたりすることは、啓蒙主義へ逆戻りすることになるだろう。啓蒙主義以降のフィールドワークには、文脈の変化に応じて自己の位置を敏感に変化させていくような、「判断力喪失者」に陥らない繊細なフットワークが必要だ。しかもそれは、刻々と変わる権力作用の編成において、調査者の位置づけを読み解いていく醒めた認識も必要とする。
*山田富秋「フィールドワークのポリティックス」・好井裕明 桜井厚『フィールドワークの経験』せりか書房 2000年

「フィールドワークの実践とは、調査者がどのような位置から自己の経験を語っているのか、そして、それがどのような文脈において、誰に対して語られているのか、対話的に明らかにしていくこと」を念頭に置きながら、建築が作ろうとされる具体的な場所において、「建築計画学的な何か」がどのようにして編成されるのかを解読できるようなフィールドワークというものができればと考えています。

(更新:2012年11月23日)