写真は先日ご紹介したネパールのパタンというエリア。パタンを歩いて気づくのが、屋外のあちこちに座っている人がいること。
多くの人が指摘しているように、日本の都市には座れる場所が少ない。お金を払えば座れる場所(カフェなど)はありますが、時間帯によってはカフェも満席の場合が多い。パタンと日本とでは都市の形成のされ方が違いにしても、座っている人が多いと感じてしまいます。
座っている人は、話をしたり、道行く人を眺めたり、携帯電話で話をしたり、物を売ったり、休憩したり。座っている人の前を通りかかった人が立ち話をしたり、物を買ったりと、あちこちで人々の関わりが生まれている。
こうした様子をみて、時にはゆったりとした時間の流れを感じ、時には楽しさ、微笑ましさを感じる。また、これだけ多くの人が座っていると見守ってもらっている(悪く言えば見張られている)ように感じます。
ゆったりとした時間の流れを「感じる」、時には楽しさ、微笑ましさを「感じる」、見守ってもらっていると「感じる」というのは根拠のない主観的なもの。でも、思わずそのように感じてしまう光景が目の前に広がっていることに意味があるのだと思います。
ある都市において、歩いて楽しいと感じるか退屈に感じるか、雰囲気が良いと感じるか悪いと感じるかは、他者の姿を見て、自分がどのように感じるかという主観によるところが大きいのではないかと。これは外からちょっと訪れただけの観光客的な見方だとは思いますが、都市というのはそのような観光客をも受け止めてくれる場所なのだと思います。
まさに「あなたがそこにそう居ることは、私にとっても意味があり、あなたの環境は、私にとっての環境の一部でもある」(鈴木毅)という指摘の通りだと思います。
※参考:鈴木毅「体験される環境の質の豊かさを扱う方法論」・舟橋國男編『建築計画読本』大阪大学出版会 2004年