『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

映画『精神』

想田和弘監督の映画『精神』を観た。
『精神』は、外来の精神科診療所「こらーる岡山」の人々(医師やスタッフ、心の病の当事者ら)を撮影したドキュメンタリー映画。
リーフレットには次のように紹介されている。

カメラがじっと目を凝らす。
固く閉ざされていた精神科の扉が開く——!
『選挙』の想田監督が再びタブーに挑んだ観察映画第2弾!
*『精神』リーフレットより

ここに出てくる「観察」という言葉について色々と考えさせられた。

建築計画の研究においてフィールドワークをするときにも、「観察」調査がよく行われる。
ある場所において、誰が、どこで、何をしているのかを図面上に書き込んでいったり、写真に録ったり、あるいは、ビデオを用いて記録したり。
その時、観察している研究者は、その場所に居る人々に対して何の影響も与えない存在、あたかも透明人間のような存在であることが仮定されている。
研究者が、その場所に居る人々に影響を与えてしまっては、それは研究のデータとして使えないということなのだろう。

このような「観察」調査に対して、「観察」映画である『精神』においては、撮影者(監督)と出演者とが会話のやりとりをしている場面がしばしば出てくる。
想田監督は当初、主演者に対して「自分はここにいない者と見なして欲しい」と伝えていたのだが、「こらーる岡山」の人々とそのように関わることは無理だったという。「いない者と見なして欲しいと言われたって、現実には、目の前にいるんだから」と。
この映画には「自分自身と出演者との関係が映されている」。想田監督はこのように話していた。

映画において、何かを主張するのではなく(今回の場合は、例えば、障害者自立支援法を批判するのではなく)、また、精神病の全体像を描こうとするのでもなく、自身が身をおいた場所において、目にしたことを、自身との関係も含めて撮影(記録)していくこと。

映画と研究という違いはあるにしても、建築におけるフィールドワークが、想田監督のフィールドとの関わり方から学ぶべきことは多いと思わされた。研究者が透明人間になるのではなく、研究対象とするフィールドの人々と関わっていくことで見えていくことがあるのではないか。

今まで、「ひがしまち街角広場」、それから、いくつかの地域のカフェのフィールドワークをしてきた。
それぞれのカフェによって、その場所の人々との関わり方が少しずつ違っている。
その場所の人々と、今でも親しく関われるカフェもあれば、少し距離をおいて関わってきたカフェもある。運営側の人とは親しくなれたが、お客さんとはなかなか話す機会がなかったカフェもある。
「研究者である自身が、その場所に対して、どのように関わることができるのか」ということも、その場所がもつ何か一側面を表わしているのだろう。そんなことまで視野にいれた研究をしてみたい。

『精神』を観てそんなことを感じた。