『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

民家と民家風のテーマパーク

再び、映画『精神』について。
先日紹介したとおり、『精神』は、外来の精神科診療所「こらーる岡山」を舞台としている。
舞台となった「こらーる岡山」は、1997年に山本昌知医師を中心として開かれた場所で、牛乳配達や食事サービスを行う作業所や、患者のためのショートステイ施設などが場所が併設されているなど、非常に興味深い場所になっている。その中でも、古い民家を利用した待合室が特に興味深かった。

「こらーる岡山」の待合室では、病院の待合室と聞いて思い浮かべるような空間とは全く違って、居合わせた人々がおしゃべりしたり、寝転がったり、飲物を飲んだり、煙草を吸ったりと自由に過ごしている(喫煙は、最近禁止になったよう)。
お正月、おじいちゃん・おばあちゃんの家に親戚の人たちが集まったような感じと表現すればいいだろうか。
おじいちゃん・おばあちゃんの家が古い民家だという人も、世代によっては少ないかもしれないが…

監督の想田和弘氏は、民家を利用した待合室について次のように話している。

そういう意味では、僕は、こらーる岡山の環境そのものが、人と出会いやすいようにできているように思います。例えば、待合室が畳敷きでみんながゴロンとなれたりとか。普通の病院みたいにみんなが一方向を向いて並んで待つような待合室じゃなくて、むしろ囲むような待合室じゃないですか。患者さん同士が友達になったり話し始めたりしやすい。
*想田和弘『精神病とモザイク』中央法規出版 2009年

民家がもつ力、建築がもつ力、あるいは、場所がもつ力。こんな表現をしたくなる。建築計画を学んできた者としては、是非、こんな場所を作ってみたい。
けれど、精神科医の斎藤環氏の、想田監督との対談における次の発言を読むと、話はそう簡単ではないことがよくわかる。

斎藤 ・・・・・・。だからよくいうのは、ある種の人にとっては病むのは必然だけれども、治るのは偶然なのです。・・・・・・。そういう治療的な出会いを起こすのは、本当に偶然に頼るしかないいんです。だからわれわれは「いい人と出会ってくれよ」と祈るしかないわけです。こうなってくると、治療者といっていいかどうかわかりませんが、我われにできるのは有意義な出会いが起こりやすい方向付けと環境設定までなのです。
その点、本当にこらーる岡山のような環境は、出会いを媒介する場としては、巧まずしてそうなっているものだとは思いますが、本当によくできているなと思います。ただ、ああいう環境を意図してつくろうとするとテーマパークになってしまうんですね。
想田 テーマパーク(笑)。
斎藤 これは本当に難しいのです。「いかにも古い民家風にアレンジしてみました」みたいな、気のきいたレストランみたいになってしまうのです。
*斎藤環 想田和弘「『精神』が照らす日本の精神医療」・想田和弘『精神病とモザイク』中央法規出版 2009年

民家ではなく、民家風のテーマパーク。
ひがしまち街角広場」のような街角の居場所は、専門家が意図的に計画できるものだろうか? そもそも専門家の役割とは何か? 今まで、こんな議論をし続けてきたが、同じ課題がここにも横たわっている。
まだまだ、考えるべきことは多い。