『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

居場所における理念の言語化についてのメモ(場所を考える-67)

近年、コミュニティカフェ、地域の茶の間、宅老所、こども食堂などの居場所(まちの居場所)と呼ばれる場所が開かれてきました。居場所の運営のあり方は様々ですが、従来の施設(制度:Institution)ではない場所として開かれてきたという特徴があります(日本建築学会, 2019)。
しかし、近年では、宅老所が小規模多機能型居宅介護として制度化されたり、コミュニティカフェ、地域の茶の間などをモデルとした介護予防を目的とする「通いの場」が制度の中に位置づけられたりと、居場所の制度化と捉えることができる状況も生まれています。制度や施設を否定するわけでありませんが、当初、居場所が施設でない場所として開かれたとすれば、居場所と施設は何が違うのかをおさえる作業は欠かせないと考えています。

居場所と施設の違い

「要求-機能」関係

居場所と施設の違いについては、生活科学研究を行う佐々木嘉彦(1975)と、佐々木嘉彦の議論を受けた建築学者の大原一興(2005)の「要求-機能」関係の議論をふまえ、次のように捉えてきました。

  • 居場所:機能は、要求への対応を通して事後的に備わる
  • 施設:機能は、要求に先行してあらかじめ設定される

居場所の機能は、一人ひとりの要求への対応を通して事後的に備わっていく。それに対して、施設の機能は、専門家が人々の要求を先取りすることで、あらかじめ設定される。つまり、居場所と施設は、担っている機能に注目するだけでは区別することができないことになります。さらに、居場所に事後的に備わった、例えば、介護予防、貧困解消などの機能を抽出し、実現すべきものとしてあらかじめ設定することによって、居場所を制度に取り込むことができるということになります*1)。

居場所の運営に携わる方から、次のようなことを伺ったことがあります。多くのことを気づかせてもらった、自身にとって大切な言葉です。

「今どこに行っても、〔居場所の〕立ちあげの目的は介護予防・健康寿命延伸のためと紹介されます。結果そうであることを願いますが、・・・・・・、参加される全ての方にとって日々の生きる喜びや楽しみ、自己実現の場であり、結果、地域に生きる安心につながることを願っています。そのために必要なことをプラスしながらやっていけたらと思っています。」(田中康裕, 2021)

この言葉においては、居場所が「介護予防・健康寿命延伸」という機能を担うことが否定されているわけではありません。しかし、「結果そうであることを願います」と話されているように、それらの機能は結果として実現されること、そして、何よりもまず「生きる喜びや楽しみ、自己実現」を実現するという「日々」が大切であるということ。
このことは、「日々」を大切にすることが結果として、「介護予防・健康寿命延伸」という機能を生み出すプロセスになっているように見える、と考えることもできます。

居場所の理念

居場所においては、一人ひとりの要求への対応がなされると書きましたが、それでは、一人ひとりの要求にどのようなかたちで対応されるのか。この点については、理念を実現するようなかたちで対応される、と捉えてきました。
つまり、一人ひとりの要求への対応は、理念が実現された具体例を生み出すことでもある。それゆえ、運営を継続すればするほど、具体例は増えていき、理念を具体的な中身を伴った豊かなものとして語ることができるようになっていく。

このように、居場所と施設の違いを捉えるうえでは、理念に注目することが重要になると考えてきましたが、十分に考えることができていないところがありました。

最近、精神科医・批評家である斎藤環の『イルカと否定神学:対話ごときでなぜ回復が起こるのか』(以下、斎藤環(2024))を読みました。オープンダイアローグ*2)において「『なぜ対話ごときで、精神病が治るのか』という根本的な疑問」について考察した書籍で、「否定神学」と「コンテクスト」*3)という2つの概念を用いて、対話と回復のプロセスで起きていることが次のように記述されています。

「言語化というプロセスは、自然言語が持っている否定神学的機能ゆえに、その対象に『逆説化』ともいうべき作用を及ぼします。
およそ逆説とは無縁な脳とコンテクストは、言語のもっている本質的な作用によって『逆説的プロセス』として記述されてしまいます。極論すれば、いかなる行為、いかなる事象も、言語化されることによって『逆説の可能性』をはらんでしまう、ということです。治療においては、これが決定的な意味を持ちます。」(斎藤環, 2024)

斎藤環の議論、オープンダイアローグの議論から逸れてしまいますが、この本を読み、居場所の理念について次のようなことを考えました。

否定神学

斎藤環は、「人間は、いちばん言いたいことは言わない。あるいは、言えない。これが、おそらくもっとも簡単な『否定神学』の説明」だと述べ、否定神学的であることを次のように説明しています。

「解き明かせない謎を少なくとも一つ確保することで、そのシステムなり組織なりの全体構造を、謎との関係において語れるようにする。このロジックは非常に強力なものです。・・・・・・。日本のポストモダニストたちも、自らの思想を展開するうえで、否定神学的ロジックを多用していました。」(斎藤環, 2024)

居場所において、理念が言語化されている場合でも、運営が始まった当初は具体例を伴っていません。しかし、運営において生じた出来事に、理念を実現するかたちで対応されることで、理念は、それが実現された具体例を伴うものとして捉えることができるようになっていく。
当初は具体例によって語れない理念が、運営に影響を与え、理念が実現された具体例を生み出していくというかたちで捉えることができること。斎藤環(2024)を読み、理念のこのような捉え方は、否定神学的なものになっているかもしれないと感じました。

抽象的な話になってしまいましたので、これを具体的な場所を例にみていきたいと思います。

■「親と子の談話室・とぽす」
「親と子の談話室・とぽす」は、1987年、東京都江戸川区に、子どもだけでも入れる図書コーナー付きの喫茶店として開かれた場所です*4)。オープンのきっかけは、Sさんの思春期の子どもたちには、友人と語り合える場所、様々な大人と出会える場所が必要だという思いですが、約40年にわたる運営を通して、「とぽす」には不登校の子ども、心の病を抱える人、中高年の女性なども訪れてきました。

(親と子の談話室・とぽす)

「親と子の談話室・とぽす」では、「年齢、性別、国籍、所属、障害の有無、宗教、文化等、人とのつきあいの中で感じる『壁』を意識的に取り払い、より良いお付き合いの場所」*5)するという理念が掲げられており、これが「新しいコミュニケーション」と表現されています。Sさんは、「新しいコミュニケーション」を次のように話しています。

「その目的が、最初は芽だったんだけど、それが少しずつ伸びていって、枝をはって、実がなっていくみたいな。・・・・・・。私は、子どもと大人のコミュニケーションの場所であるということ。子どもと大人っていうのは年齢の差もある。それに付随して、差別とかそんなものを感じるものを全てとっぱらいちゃいたいっていうね、そこまでいってここをつくったので。それを新しいコミュニケーションと私は名づけたんだけど、それしか言葉としてはね、表現できなかったので。『いま新しいコミュニケーション〔の心〕を考える』んだから、まだ考え続けてるんですよ。その中に、心の病の人とのコミュニケーション、知的障害の人とのコミュニケーションも生まれてきたし。」*6)(田中康裕, 2021)

「親と子の談話室・とぽす」において、「新しいコミュニケーション」は、当初、「それしか言葉としてはね、表現できなかった」ものとして言語化された。けれども、運営を通して、「心の病の人とのコミュニケーション、知的障害の人とのコミュニケーションも生まれてきたし」というように、「新しいコミュニケーション」は計画していなかったかたちで具体的な中身を伴ったものになったと考えることができます。

■「居場所ハウス」
居場所ハウス」は、2013年、東日本大震災の被災地に開かれた場所で、本稿著者はオープン少し前から「居場所ハウス」の運営に関わってきました。
「居場所ハウス」は、ワシントンDCの非営利法人「Ibasho」の呼びかけがきっかけとなり開かれました。そして、「Ibasho」が掲げる①「高齢者が知恵と経験を活かすこと」、②「あくまでも「ふつう」を実現すること」、③「地域の人たちがオーナーになること」、④「地域の文化や伝統の魅力を発見すること」、⑤「様々な経歴・能力をもつ人たちが力を発揮できること」、⑥「あらゆる世代がつながりながら学び合うこと」、⑦「ずっと続いていくこと」、⑧「完全を求めないこと」という8つの理念に基づいて運営されています。

(居場所ハウス)

「居場所ハウス」の運営が始まると様々な課題に直面し、運営に関わる人の間には、理念では運営できない、理念とは違うかたちで運営する必要があるという思いも生まれてきました。
けれども、そのような課題に対しても、何らかの対応をする必要がある。例えば、ボランティアがいないためパートを雇用したり、若い人に来てもらうためにお祭りや講師を企画したり、食堂の営業を始めたりするという対応が行われることになりました。このような対応において、運営は、理念から「ずれ」たものとして認識されていましたが、このような対応において、パートと来訪者との関係を緩やかなものにしたり、若い人にもお祭りの際には役割を担ってもらったり、食堂営業のための厨房を自分たちで建設したりと、理念が部分的に実現されるという状況を見出すことができます。このようなかたちで、言語化された理念は、出来事に対応するためのリソースになっていると捉えることができます(田中康裕, 2025b)*7)。


繰り返しになりますが、居場所において言語化された理念は、当初は具体的な中身を伴っていません。それが、運営を継続することで、計画していなかったかたちで中身を伴うものになっていく。
このような状況は、当初の計画から逸れたものと捉えることもできますが、当初の計画から逸れたからこそ、理念が計画されなかった具体例によって捉えることができるようになった、とも捉えることができます。

コンテクスト

斎藤環は、言語化には否定神学的機能があるため、「逆説化」ともいうべき作用をもたらし、コンテクストを揺さぶると指摘しています。

「コンテクストそれ自体は、自分自身を強化する以外の変化を起こすことができません。それを可能にするのが対話であり、対話を構成する自然言語の否定神学的な機能です。その意味で対話とは、言語の否定神学性を最大限に有効活用するためのプロセスとみなすことも可能です。
言語は否定神学的であるがゆえに、あらゆる場所に『逆説』を見出し、『真理としての症状』にフェイクの要素を注入します。」(斎藤環, 2024)

運営を通して、理念を具体的な中身を伴ったものとして捉えることができるようになるという変化は、コンテクストの変化、つまり、理念が新たなコンテクスに置かれるようになったと捉えることができるように思います。

この点について、斎藤環は、「治療においては、生じてしまったコンテクストを壊したり、新たなコンテクストを立ち上げたりする必要」があると指摘しています。

「コンテクストには実体も構造もなく、自己否定的な作動をすることもできません。しかし治療においては、生じてしまったコンテクストを壊したり、新たなコンテクストを立ち上げたりする必要があります。
その作用をもたらす最大の要素が、言語であり対話なのです。言語のみではコンテクストに呑み込まれかねませんが、対話のプロセスがそれを予防してくれるでしょう。後述するように、対話にはポリフォニーという重要な機能があり、それが言語の作用に強力なブーストをかけてくれるからです。」(斎藤環, 2024)

居場所の理念は、言語化した当初と、運営が始まった後では、異なるコンテクストにおいて捉えられるようになる。ただし、居場所においては、治療のように意図的に「生じてしまったコンテクストを壊したり、新たなコンテクストを立ち上げたりする」わけでないかもしれません。
ただし、斎藤環が指摘しているように、「言語のみではコンテクストに呑み込まれかね」ない。それでは、居場所には、コンテクストを変えるものとして、言語以外に何があるのか。

「親と子の談話室・とぽす」のSさんの言葉をみたいと思います。

「ここは喫茶店なので人との出会いがその流れをつくっていっているんですよ。人との出会いがつくっていってるので、『ちょっと待って』とは絶対私は言えない。『そういう要求ならそれもやりましょうね』っていうかたちで、だんだん渦巻きが広くなっちゃうっていうかな。もちろん、中心は子どもっていうことは常に頭にあるんですけど。・・・・・・。だから人がここを動かしていって、変容させていって。しかも悪く変容させていくんじゃなくて、いいように変えていってくれてると思ってます。」(田中康裕, 2021)

居場所においては、計画していなかった出来事が生じる。そして、そのような出来事を、計画にないからと無視するのでなく、対応しようとすること。ここに、コンテクストを変える、言語以外の契機があるのではないか。
斎藤環が言及している中動態という表現を借りれば、運営者であるSさんが能動的にコンテクストを変えようとしているのでなく、「だんだん渦巻きが広くなっちゃう」ようなものとして、「中動態的」にコンテクストが変わっていくということになります。

「ここで考えておくべきは、コンテクストもまた中動態的に生成する、ということです。」

「・・・・・・対話実践とは、言語という、ややもすると『能動-受動』に傾きがちなツールを対話的に駆使することで、中動態的な過程をシミュレートすることなのかもしれません。」(斎藤環, 2024)

目的を「場」に預ける

オープンダイアローグでは、「目的をわきに置いて対話の過程に委ねる」というようにプロセスが重視されています*8)。これは、機能があらかじめ設定される施設に対して、要求への対応を通して事後的に備わる、つまり、要求への対応というプロセスが意味をもつ居場所に重なります。この点について、斎藤環は次のように指摘しています。

「患者を対象化して操作的に向き合うのではなく、対話の過程を通じて患者ネットワークと一体化すること。目的をわきに置いて対話の過程に委ねることで、よりよい方向性を、患者とともに創造すること。
この逆説をまとめていえば『意図や目的を”捨てる”ことで、意図や目的は達成できる』ということになります。
ここで『捨てる』を爪括弧でくくったのは、本当に捨てるわけではないからです。たとえばオープンダイアローグにおける『治療チーム』や『治療ミーティング』という言葉が示すように、『治療』そのものが完全に捨象されているわけではない。それが患者の自宅か病院かにかかわらず、『治療ミーティング』の場そのものが、じつは『治療という目的』を担保してくれています。
つまり対話実践において治療チームは、目的をいったん『場』に預けることで目的の追求をやめられている。『場』は過程が生成するためのフレームですから、治療チームは治療という目標をフレームに担保させる(=捨てる)ことで、フレーム内において過程にすべてを委ねることができるのです。」(斎藤環, 2024)

ここで、もう1つ場所をご紹介したいと思います。

■「実家の茶の間・紫竹」
「実家の茶の間・紫竹」は、2014年、新潟市東区に地域包括ケア推進モデルハウスとして開かれた場所で、地域における助け合いを実現するために、「『助けて!!』と言える自分をつくる、『助けて!!』と言い合える地域をつくる」という理念を掲げ、そのために、一人ひとりの尊厳を大切にすることが徹底されて運営されてきました。

(実家の茶の間・紫竹)

運営に携わるKさんは、「実家の茶の間・紫竹」のこれまでを振り返り、次のように話しています。

「今日までの歩みの中で、私は何かつくり出すのではなくて、『地域の茶の間』でも、いつも現場から学び、人から学んで決まりごとをつくってきました。・・・・・・。決まりごとの背景は、全て具体的な事例で説明することができるのです。」

「私がやってること、全ては空論でやったこと1つもなくて、一人ひとりの悲しみや、切なさや、苦しみ、それらを受け止めた結果でしかない。だから。『地域の茶の間』やった時もそう、今の『実家の茶の間』〔紫竹〕もそうだけど、私がやりたいからやるなんて1回も言ったことないですよね。必ず、誰かの声をいれてるんですよね。・・・・・・。だからね、誰かのつぶやきや、誰かの苦しみを解決することに、私にできることないだろうかっていう、それが今日までの活動なんですよね。」(田中康裕, 2025a)

「実家の茶の間・紫竹」では、Kさんらが作りあげてきた「居心地のいい場づくりのための作法」(河田珪子, 2016)に基づいて、テーブル配置、備品の準備、約束事の掲示、当番の振る舞いなどに細やかな配慮がなされていますが、ここで話されているように、「居心地のいい場づくりのための作法」は「現場から学び、人から学んで」作りあげられてきたもの。
そうすると、「居心地のいい場づくりのための作法」が様々なかたちで反映されている「実家の茶の間・紫竹」という場所自体に、「一人ひとりの悲しみや、切なさや、苦しみ」に、理念を実現するように対応することで作りあげられてきたものが蓄積されていると捉えることができます。

斎藤環は、「目的をいったん『場』に預ける」ことで、「目的をわきに置いて対話の過程に委ねる」ことができると述べていました。もしも、居場所という場所自体が、理念が実現された具体例が蓄積されたものになっているとすれば、そのような場所に身を置いてもらうことで、既に理念を実現するプロセスが始まっていることになる。
実際、「実家の茶の間・紫竹」では次のような配慮がなされています。

「戸を開けた時、みんなが『何、あの人何しに来たの?』、『誰、あの人?』とかって怪訝な目がぱっと向いたら、それだけで入れなくなったりする。だから、来てくださった方にどこに座ってもらうかまで考えてる。初めて来た人は、できるだけ外回りに座ってもらおう。そうすると、あんなことも、こんなこともしてる姿が見えてきますね。すると、色んな人がいていいんだっていうメッセージが、もうそこへ飛んでいってるわけですね。そっから始まっていくんです」

「今度、迎える側は全ての人が、その人が居てもいいよというメッセージを出していくという。表情とか振る舞いで。みんな、どの人が来ても『よう来たね、ここにゆっくりしてね、居てもいいんですよ、好きなように過ごしてね』っていうメッセージを、みんなして出していく。」(田中康裕, 2021)

初めて訪れた人には「外回り」の席に座ってもらい、思い思いに過ごしている人を見てもらうことで、理念を伝える。そして、次のその人は、自らが思い思いに過ごす一人になることで、次にやって来る人に理念を伝える。場所に身を置いてもらうことで、既に、理念を実現するプロセスが始まっているとすれば、一人ひとりの要求に、理念を実現するようなかたちで対応するという表現は、能動的過ぎたかもしれません。

それでは、居場所において、意識的になし得ることとして何があるのか。
「実家の茶の間・紫竹」における「居心地のいい場づくりのための作法」は、Kさんらが立ち上げた会員制の有償の助け合い活動「まごころヘルプ」のガイドブックが元になっています。「まごころヘルプ」の提供会員になるためにはガイドブックを用いた研修を受けることが求められていましたが、Kさんは研修の様子を次のように振り返っています。

「コーディネーターが色んな事象にぶつかるじゃないですか。癌の末期の人が切なくて、もうやめたいなんて言って来たりね。そういうのも全部、体験としてみんなでもった時、研修に事例がどんどこ入っていくわけ。・・・・・・。それを今度体験として、これ〔ガイドブック〕に肉付けしていくわけ。」(田中康裕, 2021)

「まごころヘルプ」では研修が行われた。その研修では、コーディネーターが直面した事例が持ち寄られ、ガイドブックの肉付けが行われていった。
このことを考えれば、居場所において、一人ひとりへの対応が、理念が実現されるようなものになっているというのは、その対応を後から振り返る時点で行われるもの、つまり、後付けの解釈ということになります。実は、「居場所ハウス」において、課題への対応において、理念の部分的な実現であることを見出したのは、本稿著者の後付けの解釈と言えます(田中康裕, 2025b)。

しかし、だからこそ、後付けで解釈し、それを共有するような機会を意識的にもつことが大切になる。そこで、理念を、具体例によって肉付けしていく。そのようなことができるのも、居場所においては理念が言語化されているからということになります。


■注

  • 1)居場所と施設の違いについては、田中康裕(2021)などを参照。
  • 2)オープンダイアローグとは、「フィンランド・西ラップランド地方のトルニオ市にあるケロプダス病院において、一九八〇年代から開発と実践が続けられてきたケアの『手法』であり、実践の『システム』であり、背景にある『思想』までを指す言葉」(斎藤環, 2024)である。例えば、以下の記事を参照。
  • メンタルケアの新手法「オープンダイアローグ」って?」・『日本経済新聞』2021年11月1日

  • 3)コンテクストについては、グレゴリー・ベイトソンの学習の理論が参照されている。
  • 4)「親と子の談話室・とぽす」、及び、以下で紹介する「居場所ハウス」、「実家の茶の間・紫竹」」については田中康裕(2021)などを参照。
  • 5)『とぽす通信』の「『とぽすとその仲間展』第18回記念号」(2011年)より。
  • 6)「いま新しいコミュニケーション〔の心〕を考える」という発言は、『とぽす通信』の全ての号の表紙に記されている言葉に触れたものである。
  • 7)リソースについて、人類学者のルーシー・A・サッチマン(1999)は次のように指摘している。「いかにプランがなされても、目的的行為は避け難く状況に埋め込まれた(situated)行為」、つまり、「特定の、具体的な状況の文脈の中でとられる行為」として「本質的にアドホックな(その都度的な)もの」である。それゆえ、「プランは、本来的にはアドホックな活動に対してたかだか弱いリソース(資源)であると見なすべきである」、「人々が実際にどう行為すべきかを思いめぐらす際に、人々がリソースとして用いているものにほかならない」。
  • 8)ただし、斎藤環(2024)は、「プロセスに任せていればすべてがうまくいくわけではありません」と述べ、その例として、「『共依存』のような関係性」をあげている。

■参考文献


※「場所を考える」のバックナンバーはこちらをご覧ください。連載は、2020年の新型コロナウイルス感染症発生後に、「アフターコロナにおけるリアルな場所の行方を考える」、その後、「アフターコロナにおいて場所を考える」として書いてきたものを継続したものです。