『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

他者の背中から写真を撮影すること/できること

少し前、写真家の方に、撮影した写真をお見せする機会がありました。写真家の方からは、背中が写っている写真が多いとのコメントをいただきました。コメントの通り、確かに背中が写っているものが多いことに気づきます。

この話を聞いて、自分は人の背中からの写真を多数撮影することで、どのような情報を伝えようとしてきたのかを改めて考えていました。それは、その場所は人にどのような体験をもたらすのか、ということになります。

正面から撮影する写真、背中から撮影する写真には、人に焦点をあてるのか、人を取り巻く場所に焦点をあてるのかという傾向があると言えそうです(両者の違いは撮影者の位置だけでなく、どのような焦点距離のレンズを使うかによっても生じると思われます)。

■正面から撮影する写真
・その人の表情、仕草、行動などを読み取ることができる
・場所から人を切り取り、人自身に焦点をあてる

■背中から撮影する写真
・その人の視線の先にあるものを読み取ることができる
・その人を包含する場所に焦点をあてる

ここで考えたいことは、撮影者である私と、被写体となる相手との関係。
撮影者が、公共の場で過ごしている人、何らかのプログラムに参加している人の前に回り込み正面から撮影することは、相手の目に不自然な行為と映ってしまうことがあります。撮影者が、相手から注目されるという意味では、焦点の定まった関係が生まれる。
一方、背中から撮影する場合には、撮影者と相手との関係はどうなっているのか。(盗撮ではなく)堂々と撮影しているにも関わらず、撮影していることに気づかれない場合があります。この場合、撮影者と相手との間に焦点の定まった関係は生まれていない。けれども、撮影者が相手の視線の先にあるものに目を向けて、相手が経験している(であろうと思う)ことを共体験したり、相手を背後から見守ったりするその時点で既に、撮影者は相手の存在に巻き込まれているとも言える。

例えば、ある公園を訪れた時、誰も過ごしていないのか、大勢の人が過ごしているのを目にするかによって、その公園の印象は大きく異なります。また、公園で過ごしている人の視線の先にある景色に目をやって、「この人はどういう思いでここに居るのだろうか」という思いが頭をよぎることもあります。たとえ相手と直接話をせずとも、他者が居ること自体が私に影響を与えてしまう。建築学者の鈴木毅氏が「あなたがそこにそう居ることは、私にとっても意味があり、あなたの環境は、私にとっての環境の一部でもある」*1)と指摘されている通りです。

*写真はサンフランシスコのミッション・ドロレス・パーク(Mission Dolores Park)。

この点に関して、鈴木毅氏の次の文章が思い起こされます。

「環境の中に居るということは、当事者だけの問題ではありえない。当人が意識するかしないかは別として、周囲の様々な文脈で意味・情報を発生する(現実にその場に第三者が居るかどうかは問題ではない。第三者がいない場所に居るということ自体も一つの意味を持つ)。居方はこの領域−当事者だけではなく、それを見守る第三者が認識するものも問題とする(9)。」
「(9)佐伯胖氏、上野直樹氏には「そのシーンを撮ろうとした自分、撮ることができたこと自体の意味を考えるべきだ」をはじめとして貴重なアドバイスを戴いた。」*2)

この指摘をふまえれば、(盗撮ではなく)堂々と他者を背中から撮影できること。このこと自体もまた、その場所が相手の体験を共体験したり、相手を見守ったりすることを許容するという、場所における体験に関する情報になっていると言えるのかもしれません。


  • *1)鈴木毅「体験される環境の質の豊かさを扱う方法論」・舟橋國男編『建築計画読本』大阪大学出版会 2004年
  • *2)鈴木毅「人の「居方」からみる環境」・『現代思想』1994年11月号