『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

「都市を見降ろす」という居方(アフターコロナにおいて場所を考える-41)

居方における観察者

建築学者の鈴木毅は「人間がある場所に居る様子や人の居る風景を扱う枠組み」として居方という概念を提示しています。居方が提示された背景には、「人の居る情景の豊かさを表現」するための言葉や手法がなかったという鈴木毅の問題意識があります(鈴木毅, 2004)。

「もう一つは人の居る情景の豊かさを表現できないと感じたことである。たとえば街を歩いていて誰かがベンチに座っている情景(写真5-1)に出会い、『ああいいシーンだな』と感じることがあるが、どういうふうにいいのか、なぜいいのか自分で説明できないことが何回かあったのである。つまり、人の居るシーンや空間の中に居る人の様子を説明する言葉や手法がないことに気付いたのである。」(鈴木毅, 2004)

建築計画学は人間と環境との関係について多くの知見を蓄積してきたものの、その多くは集団で行われる行為や、睡眠や食事などの明確な行為を扱うもので、「『ただ居る』『団欒』などの、何をしていると明確に言いにくい行為」を十分に扱ってこなかった。居方は、「『ただ居る』『団欒』などの、何をしていると明確に言いにくい行為」をも扱うもので、鈴木毅はその具体的な表現として「都市をみているあなた」、「公共の中の自分の世界」、「たたずむ」、「あなたと私」、「居合わせる」、「思い思い」、「行き交う」、「都市を背景として」、「都市を見降ろす」、「都市の構造の中に」の10の居方をあげています(鈴木毅, 2004)*1)。

居方が記述しようとするのは、そこに居る他者を観察することの意味。このことを、鈴木毅は「居方は当事者だけの問題ではない」(鈴木毅, 1994c)、「あなたがそこにそう居ることは、私にとっても意味があり、あなたの環境は、私にとっての環境の一部でもある」(鈴木毅, 2004)という表現で、そこに居る他者を観察することの意味を指摘しています*2)。

「様々な居方を検討して分かってきたことは、他人がそこに居ることの意味である。・・・・・・、ある場所に人が居るだけで、その人と直接のコンタクトがなくても、彼を見守っている者には様々な情報・認識の枠組みが提供されるのである。中でも重要なことは、ある人は、(自分自身では直接みえない)自分がその場に居る様子を、たまたま隣りにいる他者の居方から教えてもらっているという点である。つまり、他者と環境の関係は、観察者自身の環境認識の重要な材料を提供しているのである」、「言ってみれば、『あなたがそこにそう居ることは、私にとっても意味があり、あなたの環境は、私にとっての環境の一部でもある』ということになる。」(鈴木毅, 2004)

「都市を見降ろす」という居方

ここでは、10の居方の1つである「都市を見降ろす」に注目したいと思います。都市を歩いていると、これは「都市を見降ろす」と言えるのではないかと思う魅力的なシーンに出会うことがあります*3)。

実際、これらの場所からの都市の眺めは格別です。けれども、自身が素晴らしい景色を眺めることができるだけが、「都市を見降ろす」という居方の豊かさではありません。先に述べた通り、居方においては、そこに居る他者を観察できることに意味がある。このことを鈴木毅(1994c)は、都市とダイレクトに関係をもつことにより、都市に対する個人の小ささと、逆に個人の存在の両方が浮かびあがってくる」、「都市を見ているあなたを見ることによって、あなたの見ている都市を思い巡らす」と指摘しています。「都市を見降ろす」他者を観察することは、どのような思いで都市を見ているのだろうか、どのぐらいの頻度でこの場所に来ているのだろうか、隣り合って座っている人同士はどのような関係なのだろうかなど、都市について思いを巡らすきっかけになる。これは、自身が素晴らしい景色を眺めたというのとは質の異なる貴重な体験です。

「単に展望台など都市を見渡せる場所があるだけでなく、その場所で都市を眺めている人を一緒に見ることで、観察者にとって都市を認識する材料が更に一つ増える。高い場所のデザインについては、もっと色々な手法が考えられそうである。」(鈴木毅, 2004)

「都市を見降ろす」という居方において、私は素晴らしい都市を眺めている当事者であると同時に、都市を眺めている他者を観察する存在でもあります。


「都市を見降ろす」という居方について、通常は「見下ろす」という表記を用いるのに、鈴木毅はなぜ「見降ろす」という表記を用いているのだろうかと議論になったことがあります。実際、現代日本語書き言葉均衡コーパスのオンライン版「小納言」を用いると*4)、「見降ろす」という表記も若干見られるものの、ほとんどが「見下ろす」と表記されていることがわかります*5)。そして、「車から降ろす」、「駅で降りる」というように、「降」には「内から外へ」という意味があると言われています。

鈴木毅自身は、一般的に用いられる「見下ろす」でなく、「見降ろす」という表記を用いている理由を説明しているわけではありません。そのため、以下は本稿著者の私見となりますが、これは私が観察者でもあるということに関わってくることだと考えています。

「都市を見降ろす」という居方は、観察者を含めて次の3項の関係として成立していると捉えることができます。

  • ①観察者:「②他者」を観察し、かつ、「③都市」を見下ろす
  • ②他者:「①観察者」によって観察される対象であり、かつ、「③都市」を見下ろす
  • ③都市:「①観察者」と「②他者」によって見下ろされる対象

3項の関係において、「①観察者」の側を私に近いという意味で内側、「③都市」を私から遠いという意味で外側と見なせば、3項の関係には「内から外へ」の観察という意味があると捉えることができる。それゆえ、3項の関係からなる「都市を見降ろす」という居方は、「内から外へ」という意味をもつ「降」を用いて、「見降ろす」と表記することは可能ではないかと考えています。

居方の写真を撮影すること

鈴木毅は、自らが撮影した写真や都市のパブリックスペースの動画、及び、写真集や映画から収集したシーンを資料として居方の議論を展開しています。これらの資料の魅力に影響を受けた者は、自分でも魅力的な居方の写真を撮りたいとカメラを持って都市のパブリックスペースに出ていくわけですが、居方が当事者だけでなく、観察者にとっても意味をもつとすれば、居方を議論するに足る写真を撮影するためには、次の2点を意識することが大切ではないかと考えるようになりました。

1つは、撮影しているのが撮影者にとっても魅力的なシーンであること。これは、ただ単に人が写っていればいいというわけではないと言い換えることもできます。鈴木毅が居方を議論する際に用いる写真が「情緒的」だと指摘される理由はここにあると考えています*6)。

もう1つは、撮影者があるシーンを魅力的だと感じるという状況は、撮影者も既にそこに居合わせているから可能になっているのであるから*7)、無理なく写真を撮影できること。隠し撮りをしなければならないような状況は、撮影者がそこに「居合わせる」状況として不自然だということになります。鈴木毅が居方を議論する際に用いる写真は、他者の背後から撮影した写真が多い理由はここにあると考えています*8)。

撮影者にとっても魅力的なシーンであり、それを、そのシーンを無理なく撮影できること。これを意識すれば、都市がまた違ったかたちで見ることができるようになるのではないかと感じます。


■注

  • 1)居方については、こちらの記事も参照。
  • 2)居方における観察者については、こちらの記事も参照。
  • 3)ここで掲載している写真は、鈴木毅の議論を受けて、本稿著者が撮影したものである。
  • 4)現代日本語書き言葉均衡コーパスは、大学共同利用機関法人人間文化研究機構国立国語研究所と文部科学省科学研究費特定領域研究「日本語コーパス」プロジェクトが共同で開発したコーパス。2012年3月現在、以下の11ジャンルの合計約1億500万語が対象とされている。( )内はそれぞれのデータの発行年、サンプル数、句読点・記号を除いた推定語数。各ジャンルについて無作為にサンプルが抽出されている。○書籍(1971~2005年、22,058件、約6,270万語)、○雑誌(2001~2005年、1,996件、約440万語)、○新聞(2001~2005年、1,473件、約140万語)、○白書(1976~2005年、1,500件、約490万語)、○教科書(2005~2007年、412件、約90万語)、○広報紙(2008年、354件、約380万語)、○Yahoo!知恵袋(2005年、91,445件、約1,030万語)、○Yahoo!ブログ(2008年、52,680件、約1,020万語)、○韻文(1980~2005年、252件、約20万語)、○法律(1976~2005年、346件、約110万語)、○国会会議録(1976~2005年、159件、約510万語)。本稿で用いた「小納言」は、現代日本語書き言葉均衡コーパスのオンライ版である。
  • 5)「小納言」を用いて、「メディア/ジャンル:全てのジャンル」、「期間:全期間」、「検索文字列:見下ろ/見降ろ」の条件で検索したところ、「見下ろ」は971件、「見降ろ」は17件がヒットした(検索日は2022年10月30日)。
  • 6)鈴木毅(1994a)は、「事実私はある研究者から『こういう情緒的なスライドを使って建築を論じようとするのはよくない』という意味のコメントを頂戴したことがある」と述べている。
  • 7)本稿著者は、10の居方のうち「居合わせる」は、観察者(撮影者)自身も、そこに居合わせることができるという意味で特別な居方だと捉えている。「居合わせる」については、こちらの記事を参照。
  • 8)このような写真を用いて居方を議論することについて、鈴木毅は「佐伯胖氏、上野直樹氏には『そのシーンを撮ろうとした自分、撮ることができたこと自体の意味を考えるべきだ』をはじめとして貴重なアドバイスを戴いた」(鈴木毅, 1994b)と記している。

■参考文献

  • 鈴木毅(1994a)「居方という現象:「行為」「集団」から抜け落ちるもの(人の「居方」からの環境デザイン3)」・『建築技術』1994年2月号
  • 鈴木毅(1994b)「人の「居方」からみる環境」・『現代思想』1994年11月号
  • 鈴木毅(1994c)「環境の広がりの中で(人の「居方」からの環境デザイン8)」・『建築技術』1994年12月号
  • 鈴木毅(2004)「体験される環境の質の豊かさを扱う方法論」・舟橋國男編『建築計画読本』大阪大学出版会

※「アフターコロナにおいて場所を考える」のバックナンバーはこちらをご覧ください。