『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

多様な人々が共生する地域について:参加・交流でないかたちの関わり

今日(2020年2月12日)、「居場所ハウス」に視察に来られた方から次のような質問がありました。高齢者、障害者、子どもを含めた人々が共生する地域はどう実現できると思うか? という質問です。
少し前、「居場所ハウス」に視察に来られた方からも、子どもと高齢者による多世代の関わりはどうすれば実現できるか? という似たような趣旨の質問を受けたことを思い出しました。

ある特定の属性の人々だけでなく、様々な属性の人々はどのように共生し得るのか。これは、大きなテーマになっているのだと思います。

質問を受けた時に感じたのは、ここでイメージされている関わりのかたちが、例えば、子どもと高齢者が向かい合って何らかのプログラムに参加することで、交流を実現しようとするもの。関わりをこのように捉えると、(運営側にとっては)どのようなプログラムを企画すれば、子どもにも高齢者にも参加してもらえるのか、楽しんでもらえるのかを考える、ということになります。

もちろん、交流のためのプログラムに参加するというのは、多様な人々が共生する地域の1つのかたちだと思います。ただ、地域での暮らしがプログラムの寄せ集めとして成り立っているのではないように、プログラムだけでは地域での暮らしは成立しない。

ここで思い浮かべるのは、千里ニュータウンのコミュニティ・カフェ「ひがしまち街角広場」で、学校帰りの子どもたちが「おばちゃん、お水ちょうだい」と言って立ち寄る光景。あるいは、「居場所ハウス」に子どもたちが遊びに来たり、勉強に来たりする光景。

「ひがしまち街角広場」に水を飲みに立ち寄る子どもたちは、スタッフに水が欲しいことを伝え、飲み終えた後はお礼を言って帰る(お礼を言わないと怒られる)。その様子をスタッフや来訪者が見ている。子どもも、高齢のスタッフや来訪者も、決して交流しようとしているわけではない。
「居場所ハウス」に遊びに来る子どもたちも同じ。スタッフや来訪者と交流することを目的にしていないが、スタッフや来訪者と同じ空間で遊んだり、勉強したりする。
こうした状況が、結果として挨拶をしたり、顔見知りになったりする程度の「弱い」関係が築かれている。

多様な人々の共生、多世代の関わりを考える上では、こうした「弱い」関係を見落としてはならないと思います。そうすると、(運営側にとっては)どのような場所であれば、多様な人々、多世代の人々に出入りしてもらうことができ、結果として「弱い」関係が築かれるのか、ということになります。

上で書いた通り、交流のためのプログラムに参加するというかたちは関わりの1つのかたち。でも、それだけではない。
多様な人々が、多世代の人々の関わりを考える時、参加や交流という考えを一旦脇に置いてみると、色々な可能性が見えてくるのではないか。視察に来られた方にはこのような話をさせていただきました。