『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

今、まちの居場所を考える

2000年頃からコミュニティ・カフェ、子どもの居場所、宅老所など、これまでの施設の枠組みには当てはまらない場所が各地に生まれています。日本建築学会環境行動研究小委員会のメンバーではこうした動きに注目し、「私的な場所でもなく、形式ばった場所でもなく、人が思い思いに居合わせられる場所。そして、新たに地縁を結びなおす場所」を「まちの居場所」と捉えて、その意味を共有するために『まちの居場所』(日本建築学会編, 東洋書店, 2010年)という書籍を刊行しました。
出版から4年が経過した今でも、「まちの居場所」は各地に生まれ続けていますし、4年前には想像しなかったかたちの場所もあるのではないかと思われます。「まちの居場所」がますます身近になったことには違いありません。

以下は、千里ニュータウンの「ひがしまち街角広場」や大船渡市の「ハネウェル居場所ハウス」等に関わってきた経験から、今、「まちの居場所」をめぐって何が大切なのか? 何を考察し、伝えるべきか? について個人的に考えている内容です。

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①社会や時代に対するビジョン

様々なかたちのまちづくり、コミュニティ活動が行なわれています。そうした中で、「まちの居場所」という具体的な空間をもつ場所があることによってしか実現できないことは何か?
2000年頃から「まちの居場所」が各地に開かれている背景には、何らかの時代状況があると思われます。そうした時代背景もふまえた上で、「まちの居場所」はどのような地域を実現できるのかという、「まちの居場所」の価値、社会や時代に対するビジョンを示すことが大切だと考えています。

②先駆的な場所のその後

2000年頃から「まちの居場所」が開かれ始めていますが、それから15年が経過しました。先駆的なまちの場所は、今、どうなっているかを伝える必要があります。15年間にわたって運営が継続されている場所もあれば、既に閉鎖してしまった場所もあると思います。
近年、開かれた場所も同じような道を辿っていくとするなら、先駆的な場所は今どうなっているのか? 運営を継続する上でどのような課題が生じているのか? どう変化していったのか? 閉鎖されたすれば何が原因だったのか? など、先駆的な「まちの居場所」のその後を伝えることは大切な作業です。

③「まち」と「居場所」の視点(「まちの居場所」にはまちの歴史が凝縮されている)

千里ニュータウンの商店街の空店舗に開かれた「ひがしまち街角広場」は2001年9月にオープンし、その運営は14年目に入りました。現在、「ひがしまち街角広場」ではボランティアスタッフが高齢化しつつあることに加えて、近い将来、商店街が建替えとなるため(建替えによって手頃な価格で借りることができる空店舗が消滅するため)、運営場所をどう確保するかなど、大きな課題に直面しています。
こうしたことを考えると、「ひがしまち街角広場」はニュータウンで、入居から約40年が経過した時期だったからこそ生まれた捉えることができるように思います。つまり、ニュータウンには同じような世代や属性の人々が一斉に入居したこと、40年近くの間に培われてきた人間関係があったこと、入居時に20〜30代だった人が60〜70代と元気な世代の人が多かったこと、商店街が徐々に寂れて空店舗になっていたことなど、入居から約40年が経過したニュータウンというまちに合致した形で、「ひがしまち街角広場」は成立していた。これは、団地や商店街が建て替わることで、入居者が変わったり、空間的な変化があれば、また違った形での運営が成立するということにもつながります。
「まちの居場所」は、まちから遊離し、単独で成立しているのではなく、まちの状況や歴史を背景として成立している。従って、まちの視点から「まちの居場所」を捉えることは、「まちの居場所」を成立させる条件を明らかにすることと、同時に、「まちの居場所」を通してそのまちの歴史を記述することが可能になると考えています。

④場所の主(あるじ)とは

まちの居場所』では、「まちの居場所」には主(あるじ)[=その場所に(いつも)居て、その場所を大切に思い、その場所(の運営)において何らかの役割を担っている人であり、その場所とセットでしか語り得ない人]と呼べる人が存在していることに注目しました。先駆的な「まちの居場所」は、主の思いによって開かれ、運営されているように見えたからです。
ただし、既に一定の成果をあげた場所を対象として取り上げたこともあり、『まちの居場所』で紹介した「まちの居場所」では、明らかに「この人が主だ」と言える人が既に存在していました。そのため、何をもって主と見なせるのか(肩書なのか、場所に顔を出す頻度なのか、場所での役割なのか等)について十分な考察ができなかったのも事実です。
一方、オープン直前から関わっている「ハネウェル居場所ハウス」では、運営が始まってから、運営に携わるメンバーが徐々に集まっており、その中心になる人も移り変わっているように見えます。「まちの居場所」と主はセットで存在が不可欠だとすれば、今まで存在した主がいなくなった時、主というものは別の人へとバトンタッチできるのか? 最初は主はいなくても、運営を継続しているうちに徐々に主の役割を果たす人が出てくるのか? など、主について改めて考えておく必要があると感じています。

⑤外部との接点としての「まちの居場所」

まちづくりの活動では、地域住民がコミュニケーションをとり、団結することの重要性がしばしば指摘されますが、「まちの居場所」は地域の内部の力だけで成立するのかは、考えてるべきテーマだと考えています。例えば、千里ニュータウンの「ひがしまち街角広場」は建設省(現国交省)の「歩いて暮らせる街づくり事業」と、それを受けた豊中市の社会実験がきっかけになっています。大阪府のいくつかの府営団地で運営されている「ふれあいリビング」は大阪府の事業ですし、大船渡市の「ハネウェル居場所ハウス」は東日本大震災の被災地への海外からの支援がきっかけになっています。いずれも、地域外からの働きかけがきっかけになっています。
「まちの居場所」とは、地域外からの働きかけと、それに対応する内部の力がある時に、内部と外部が上手く噛み合った時に生まれるものだと言えるかもしれません。そのような「まちの居場所」には、どこかで外部性を内包しており、その外部性をどうつきあうかが大切になる。上にあげた主(あるじ)は外部性を帯びた存在として捉えることができようにも感じています。
なお、自分自身は「ハネウェル居場所ハウス」に、地域外から来た者として関わらせていただいていますが、地域にとって外部の存在だからこそできることがあると感じています。例えば、外部の者だから新鮮な目で出来事を見て、記録することができる、地域の既存の人間関係から離れているから、既存の人間関係を越えて人々を媒介できるなどをあげることができます。「まちの居場所」において外部の存在はどのような役割を果たせるか? も、外部性を考える時の1つの視点となります。
加えて、少し大きな話になりますが、高齢化や人口減少が進む地域では、単独でその地域の生活を維持することができなくなってきます。その際、他の地域と資源のやり取りをすることで、地域の生活を維持するというのも1つの方法です。「まちの居場所」は外部性を内包しながらでしか成立しないとすれば? もしかすると、「まちの居場所」は地域が、他の地域とつながるための窓口としての役割を担える可能性もあります。

⑥行政との関係

例えば、近年、提唱されている地域包括ケアシステムでは、高齢者ができる限り住み慣れた地域で生活し続けるようにするために、「まちの居場所」的な場所が注目されています。これまで、それぞれの創意工夫を重ねながら運営されてきた「まちの居場所」が評価されるのは喜ばしいですが、反面、「まちの居場所」が制度の中に取り込まれて、魅力が失われてしまう懸念もあります。懸念とここで書いたのは、「まちの居場所」を実践する何人もの方から、行政からの支援を受けると画一的な運営しかできず、創意工夫して運営することができなくなるから、行政の(特に金銭的な)支援は受けない、という言葉を聞いたからです。この懸念が単なる誤解から生じたものなのか、一面の真実を含んでいるのかは考察する余地があると思います。
「まちの居場所」が大切にするものが失われるような支援は論外としても、「まちの居場所」に対してどうすれば効果的な支援ができるか? という問いは行政の立場としての視点だと言えそうです。「まちの居場所」が行政との関係や、制度化の流れに対してどう付き合っていくのか? というように、支援を受ける受動的な存在ではなく、能動的な存在として行政、制度化と関わる「まちの居場所」を捉えていく必要があると考えています。

⑦場所の歩みがつまった辞典のようなもの

最初に書いたように社会や時代に対するビジョンが大切だとしても、ビジョンだけでは「まちの居場所」を日々運営することはできません。コーヒーはどういれるか? 値段はどう設定するか? テーブルはどう配置するか? イベントはどうやって周知するか? 等々、日々の運営はこれら一見些細に思えることの積み重ねです。これについては「この場所では・・・のようにしている」、「あの場所では・・・のようにしている」というように、他の場所の実践例を参考にしながら、自分たちの場所で試してみるしかありません。そのためには、他の場所を実際に見学するのも有効ですし、「まちの居場所」の実践者の講演や著書が魅力的なのは、そこに具体的な実践が活き活きと語られ、描かれているからです。
このようなことを考えると、「まちの居場所」を日々運営する上で求められているのは、ある具体的な場所の歩みがつまった辞書のようなものかもしれません。今までに編集した『街角広場アーカイブ』や『居場所ハウスのあゆみ』が、今という時代において少しでも有用な資料になっているとすれば、この意味においてではないかと思います。そして、「まちの居場所」の活き活きとした実践を記録し、編集するという作業こそ、地域にとって外部のものが果たせる役割の1つだと考えています。

⑧「まちの居場所」を施設化する眼差し

「まちの居場所」を対象とする学術研究(自身の分野では建築計画学)のあり方も見直しが迫られていると考えています。
学術研究として事例調査が行なわれる場合、調査結果を論文としてまとめる際に一般化の作業が行われます(その現象は、この事例だけに見られるのか? 一般的に見られるのか? というのは常につきまとう問いです)。こうした研究の積み重ねにより、「まちの居場所」の特徴は○○と○○と○○で、成立に必要な条件は○○と○○と○○というかたちで、一般化された知が蓄積されていくことになります。
では、こうして蓄積された知をそのまま採用すれば「まちの居場所」は計画できるのか? これは興味深い問いですが、ここでより注目すべきことは、各事例から抽出された知を適用することで、類似の場所が計画できるという振る舞い自体が施設化の始まりではないか? ということです。研究の成果を参考にしながら、「まちの居場所」のような場所を作る時には○○という基準に従ういなさい、という流れになった途端、「まちの居場所」は制度の中に取り込まれてしまう。こうなれば、このような学術研究は「まちの居場所」を施設化するのに寄与していると言われても批判はできません。
「まちの居場所」は施設か否か? と議論されることはありますが、「ひがしまち街角広場」や「ハネウェル居場所ハウス」など1つ1つの場所自体では施設ではないので、これらの場所を施設として捉えてしまう眼差しがあるということ、特に従来の建築計画学はこれに親和性が高いということは常に頭に入れておかねばなりません。


2000年頃、「まちの居場所」に初めて出会った時、このような場所があるのかと驚き、大きな可能性を感じました。各地に多くの場所が生まれ続けている今だからこそ、改めて「まちの居場所」がもつ可能性を最大限に共有するための作業が求められていると思います。