『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

ネパールのパシュパティナート、死が身近にあると感じさせられる場所

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写真はネパールの首都カトマンズにあるパシュパティナート(Pashupatinath)。シヴァ神を祭るネパールでは最大のヒンドゥー教寺院で、インド大陸四大シヴァ寺院の1つでもある。
寺院を流れるバグマティ川(Bagmati River)はガンジス川の支流であるため、ここに遺灰を流すのがヒンドゥー教徒の願望で、多くの人が巡礼にやって来るとのこと。
このパシュパティナートは世界遺産に指定されており、海外からの訪問者は1,000ルピー(約1,000円)の入場料を払うと火葬場などに入場できます(ただし、メインの寺院はヒンドゥー教徒以外は入場禁止)。

寺院の周りにもお祈りに使う花や道具を売る人がいたり、僧侶の前に座って話を聞く人がいました。
訪れた時、バグマティ川に架かる橋の上には多くの人が集まっていました。何が行われているのだろうと思っていると、ちょうど火葬が始まろうとしているところだとわかりました。橋の上や反対側の岸には、地元の人や観光客を含めて多くの人々が火葬の様子を見守っていました。中にはカメラやスマートフォンで火葬の様子を撮影する人も。
入口からバグマティ川を越えると高台になっており、寺院、火葬場が一望できる高台にはいくつかベンチも置かれており、ここにも多くの人が座っていました。

多くの人々が見守る中で火葬が行われているのを見て、こちらでは生と死の概念が違うのではないかと感じざるを得ませんでした。
生と死との間に明確な線引きがあるとついつい考えてしまいます。けれども火葬の様子を見ていると、両者の間には明確な線引きはなく、生きることの中に死が入り込んできているような感じがしました。もちろんこれは、外部から来た者の表現の仕方に過ぎないのだと思います。こちらの方は全く違うふうに生と死を捉えているのではないか? それは自身が持っている生と死という概念を越えたところにあるという、自身がもつ概念の限界を感じました。
ネパールに来て日々の暮らしと宗教が密接に関わっていると感じましたが、それは寺院など宗教に関わりのあるものが町にたくさんあるというだけでなく、宗教というもの、あるいは、生と死というものの捉え方が全く違うということなのだと思います。

ある人にとって家族や親戚、友人というのは強い結びつきですが、その人が築いてきたのは決して家族や親戚、友人とだけの関係に限りません。生きるということは直接的か間接的かを問わず、名前も知らない多くの人々との関係をもつということ。多くの関係において人は生かされてきたのだとすれば、その人の葬儀を家族や親戚、知人だけでなく、多くの人で見守るというのは自然なことなのかもしれません。

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