2023年5月20日~11月26日まで、イタリアで第18回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展(以下、ビエンナーレ)が開催されています。ビエンナーレの期間中、ベネチアのヨーロッパ文化センター・イタリア(European Cultural Centre Italy)では、「Time Space Existence」という展示が行われています。
「Time Space Existence」は、人々に時間や空間との関係を問いかけ、新たな生き方を再認識してもらい、より大きなレンズを通して建築を再考してもらうことを目的とする展示。模型、写真、ビデオ、彫刻、インスタレーションなどによって、完成したプロジェクト、進行中のプロジェクト、革新的な提案、建築表現のユートピア的な夢(utopian dreams)などについての展示が行われています*1)。
「Time Space Existence」の会場で、香港中文大学(Chinese University of Hong Kong:CUHK)のグループによる「「ニュー」ニュー・タウン」(”New” New Town)という展示を見かけました。
ニュータウンについての調査をふまえて、将来のニュータウンのあり方として、新たなインフラ、共有施設、都市空間を活用することで、将来の社会や環境の変化に応じて進化できる、活気に満ち、公平で、強靭なコミュニティ(vibrant, equitable, and resilient communities)を創造するための3つの都市デザイン戦略を紹介するというものです。
(展示「「ニュー」ニュー・タウン」)
香港中文大学(\CUHK)のグループによる展示から、香港にも多くのニュータウンがあること、そして、香港のニュータウンと千里ニュータウンには共通することがあることを教えられました。
香港のニュータウンの歴史
香港中文大学(CUHK)のグループによる展示において、香港のニュータウンの歴史を紹介する部分には、最初に、イギリスのエベネザー・ハワードによるガーデンシティ(田園都市)と、アメリカのクラレンス・A・ペリーによる近隣住区論が紹介されていました。香港の初期のニュータウンは、これらの考え方に基づいて、小規模で、自己完結(self-contained)のコミュニティとして計画。その中心には、社会的・文化的・商業的施設があり、公共交通機関と連結するタウンセンターが配置されたということです。
サテライト・タウン
香港の人口は、第二次世界大戦後に毎月約10万人のペースで急増し、1950年には200万人に到達*2)。こうした状況を受け、香港政府は1950年代に入るとサテライト・タウン(satellite town)の開発を開始しました。1950年代、観塘(Kwun Tong)が最初のサテライト・タウンとしての開発が開始。1959年には荃湾(Tsuen Wan)もサテライト・タウンとしての開発が開始されました。サテライト・タウンは、自己完結(self-contained)のコミュニティとして開発されていないのがニュータウンとの違いです。
1961年、香港政府は荃湾(Tsuen Wan)を隣接する葵涌(Kwai Chung)、青衣(Tsing Yi)に拡大することを決定し、後に香港最初のニュータウンの1つとなります*3)。
1967年には、自己完結(self-contained)の都市開発に基づいて、最初の公営団地である華富(Wah Fu:ワフー)が開発されました。
第1期のニュータウン
香港では、1960年代後半から1970年代にかけて、「ニュータウン」(new town)という言葉が正式に採用されました。香港政府は、九龍と香港島の平地の大部分はすでに開発されていたことから、大部分が田園地帯だった「新界」(New Territories)にニュータウンを建設することを提案。
「新界」とは、香港のうち、香港島と九龍半島以外の領域で、香港の総面積のほぼ90%に該当します。イギリスに99年間の期限で租借されており、1997年7月1日に、香港の他の地域とともに中華人民共和国に返還されました*4)。
1973年、香港政府は衛生都市として開発されていた荃湾ニュータウン(Tsuen Wan New Town)、沙田ニュータウン(Sha Tin New Town)、屯門ニュータウン(Tuen Mun New Town)をニュータウンとして開発することを発表。この3つが第1期のニュータウン(New Town 1.0)と位置づけられています。
なお、最初のサテライト・タウンとして開発された観塘(Kwun Tong)は、九龍の一部で都市部と見なされたことから、ニュータウンとは見なされなかったということです。
(荃湾ニュータウン)
(屯門ニュータウン)
第2期のニュータウン
第1期のニュータウン開発の成功を受けて、香港政府は1970年代に他の地域にもニュータウンを建設することを提案しました。そして、第2期のニュータウン(New Town 2.0)として1976年から大埔ニュータウン(Tai Po New Town)、1977年から元朗ニュータウン(Yuen Long New Town)、1978年から粉嶺・上水ニュータウン(Fanling-Sheung Shui New Town)の開発が始められました。
(大埔ニュータウン)
第3期のニュータウン
1980年代には第3期のニュータウン(New Town 3.0)として、将軍澳ニュータウン(Tseung Kwan O New Town)、天水囲ニュータウン(Tin Shui Wai New Town)、馬鞍山(Ma On Shan)の開発が提案されました。ただし、馬鞍山(Ma On Shan)は、公式には第1期の沙田ニュータウン(Sha Tin New Town)の延長と位置づけられています。
1990年代には北ランタオ・ニュータウン(North Lantau New Town)の開発が開始。当初の計画では大蠔湾(Tai Ho Wan)を含んだ地域が計画されていましたが、実際は東涌(Tung Chung)のみが開発されました*5)。
(天水囲ニュータウン)
時期 | ニュータウン | New Towns | プロジェクト開始年 | 面積(ha) | 計画人口(人) | 人口密度(人/Km2) | 行政区 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
第1期 | 荃湾(葵涌・青衣) | Tsuen Wan(Kwai Chung/Tsing Yi) | 1959/1961※ | 3,285 | 845,000 | 23,896 | 荃湾区・葵青区 |
第1期 | 沙田(馬鞍山) | Sha Tin( Ma On Shan) | 1973 | 3,590 | 771,000 | 18,390 | 沙田区 |
第1期 | 屯門 | Tuen Mun | 1973 | 3,267 | 589,000 | 15,370 | 屯門区 |
第2期 | 大埔 | Tai Po | 1976 | 2,900 | 324,000 | 9,100 | 大埔区 |
第2期 | 元朗 | Yuen Long | 1977 | 561 | 196,000 | 28,520 | 元朗区 |
第2期 | 粉嶺・上水 | Fanling-Sheung Shui | 1978 | 780 | 446,000 | 42,177 | 北区 |
第3期 | 将軍澳 | Tseung Kwan O | 1982 | 1,720 | 450,000 | 14,942 | 西貢区 |
第3期 | 天水囲 | Tin Shui Wai | 1983 | 430 | 290,000 | 67,442 | 元朗区 |
第3期 | 北ランタオ(東涌) | North Lantau (Tung Chung) | 1991 | 2,500 | 270,000 | 4,960 | 離島区 |
※表の作成にあたっては以下を参考にした
・ヨーロッパ文化センター・イタリア「Time Space Existence」における香港中文大学(CUHK)のグループによる展示「"New" New Town」
・Wikipedia「New towns of Hong Kong」のページ
計画中のニュータウン
第1期のニュータウンが3、第2期のニュータウンが3、第3期のニュータウンが3、合計9のニュータウンが開発されました。しかし、人口増加のスピードが緩やかになったため、2000年代から2010年代の初頭にかけて新たなニュータウンが開発されることはありませんでした。最後に開発された北ランタオ・ニュータウンは、2010年代初頭の人口は8万人で、当初計画されていた20万人の半分にも満たなかったということです。
しかし、2000年代後半から住宅需要の高まりと、住宅価格・家賃の高騰によって、公営住宅に入居するための待機期間が長くなるという状況となりました。これを受け、香港政府は、2010年代初頭に新たなニュータウン建設を提案。香港中文大学(CUHK)のグループの展示では、現在、交椅洲人工島(Kau Yi Chau Artificial Islands:KYCAI)、北メトロポリス(Northern Metropolis)で新たなニュータウンの計画が進められていることが紹介されています。
香港のニュータウンの歴史を振り返ることで、次のようなことに気づかされます。
日本でニュータウンの話題が出される時に言及されるのは、西ヨーロッパとアメリカの事例が中心です。けれども、香港中文大学(CUHK)のグループによる展示では、香港のニュータウンの歴史を紹介する部分の最初に、ガーデンシティ(田園都市)、近隣住区論があげられていました通り、ニュータウン建設は世界的な動きであることがわかります。
香港のニュータウンも、千里ニュータウンも、戦後の都市部の人口増加に対応するために開発されましたが、開発された土地は、千里ニュータウンの場合は千里丘陵、香港の場合は新界というように、都市周辺部の未開発の土地であることも共通しています。
開発の時期は、千里ニュータウンは1958年に千里丘陵住宅地区開発事業が大阪府の施策として正式決定された後*6)、1961年に起工式が行われ、1962年から入居が始まりました。1960年代の香港はサテライト・タウンが開発されており、ニュータウン開発が始められたのは1970年代になってからであることから、千里ニュータウンの方が、ニュータウンとしての開発の時期は早いことになります。
千里ニュータウンの開発面積は1,160ha、初期の計画人口は15万人です。これに対して、香港で第1〜3期に開発された9のニュータウンは全て、計画人口が15万人を大きく上回っています。面積については、天水囲ニュータウンが430ha、元朗ニュータウンが561ha、粉嶺・上水ニュータウンが780haと千里ニュータウンよりも狭いニュータウンもありますが、計画人口が多いことから、千里ニュータウンよりも高密度なニュータウンであることがわかります。
■注
- 1)「Time Space Existence」ウェブサイトより。
- 2)以下の香港のニュータウンの歴史について、特に明記していないものは香港中文大学(CUHK)のグループによる展示、Wikipedia「New towns of Hong Kong」を参照している。
- 3)Wikipedia「Tsuen Wan New Town」のページより。
- 4)Wikipedia「新界」のページより。
- 5)北ランタオ・ニュータウン(東涌)は、Wikipedia「New towns of Hong Kong」のページでは第4期とされているが、香港中文大学(CUHK)のグループの展示では第3期とされているため、ここでは第3期としている。
- 6)ただし、当時の大阪府の事業名称は「千里丘陵住宅地区開発事業」であり、ニュータウンという名称はその後に使われるようになったと言われている。
(更新:2023年12月11日)