の1年は、色々な意味で節目の年になりました。節目の年の終わりとして、これまでのこと、そして、これからの目標を書いておきたいと思います。
年末に本棚を整理していたら、随分前、ある授業で紹介してもらった本を見つけました。こんなことが書かれています。
人間を二種類に分けるこの単純な分類が、そんなにまとはずれでないとすると、哲学というものが人間にとって持つ意味は、実は二種類あることになる。水面に浮かびがちな人にとっての哲学と、水中に沈みがちな人にとっての哲学。・・・・・・
水面に浮かびがちな人にとって、哲学の価値は、言ってみれば、水面下のようすを知ることによって水面生活を豊かにすることにあるだろうし、それしかないだろう。水面に浮かんでいるだけではつまらないし、人生に深みも出ない、ちょっと水面下のようすも見てみたい、といったところだ。
でも、水中に沈みがちな人にとっての哲学とは、実は、水面にはいあがるための唯一の方法なのだ。ところが、水面から水中をのぞき見る人には、どうしてもそうは見えない。水中探索者には、何か人生や世界に関する深い知恵があるように見えてしまうし、ときには逆に、そんな深いところに沈むことが、水面でのふつうの生活にとってどんな役に立つのか、なんて、水中にいる人が聞いたら笑いたくなるような(あるいは泣きたくなるような)問いが、まじめに発せられたりもする。この二種類の人間にとって、哲学の持つ意味はぜんぜんちがう。
*永井均『〈子ども〉のための哲学』講談社現代新書 1996年
「あなたは、自分自身の自己満足のために研究をしてきたのか?」、「そんな悠長なことを言ってられるのは、あなたが恵まれた世代だからだよ」と言われると、完全には否定できないような気がします。けれども、社会と無関係に生きている人がいないのだとすれば、自分自身が感じた違和感も何らかのかたちで社会につながっているはず(それはもう、永井氏のいう哲学ではないかもしれませんが)。
自分自身の問題意識にあくまでもこだわること。同時にそれが、社会においてどんな意味を持っているのかを問い続けること。これからの課題にしていきたいと思います。
「専門バカ」と言われるように、専門性を身につければ身につけるほど視野が狭くなっていって、思考が柔軟ではなくなるという見方がなされることがあります。けれども、本来の専門性とは、それを身につければ身につけるほど、柔軟に思考できるようになっていくものではないか。永井氏は次のように書いています。
思想を持てば、思考の力はその分おとろえる。ものを考え続けるためには、すでに考えられてしまったこと(思想)を、そのつど打ち捨てていかなくてはならない。
*永井均『〈子ども〉のための哲学』講談社現代新書 1996年
同じような文章を、読んだことがあります。
これに反して、私を突き動かした動機は極めて単純なものであった。然るべき人たちの目には、それだけで充分だと映るのであって欲しいような動機、つまり、好奇心である。だが、あくまでそれは、幾分ねばり強い修練を積む価値のある特別の好奇心である。つまり、知ると都合がいいことを手に入れようと探る好奇心ではなく、自分自身からの離脱を可能にするような好奇心である。仮に、知へのひたむきさが、知見の獲得のみを保証し、特定の仕方で、できうるかぎり、知見を得る者が道を踏み外さないようにする点にあるのだとすれば、どこにひたむきにものを知ろうとする価値などあろうか? 人生には、いつも考えるのとは違う仕方で考えることができるか、いつも見ているのとは違う仕方でものを捉えることができるか——ということを知ることが、ものを見据え、反省を加えることを継続するのに不可欠の問題となる、そういった転機があるものだ。・・・・・・。だが、哲学——哲学的な活動という意味で言っているのだが——が、思考の思考自身への批判的作業でないとしたら、今日、哲学とはいったい何であろう? もし、また哲学の本領が、自分のすでに知っていることを正当化するかわりに、他のように考えることが、いかに、どこまで可能であるかを知ろうとすることを企てることのうちにないとしたら、いったい哲学とは何であろうか? もし、また哲学の本領が、自分のすでに知っていることを正当化するかわりに、他のように考えることが、いかに、どこまで可能であるかを知ろうとすることを企てることのうちにないとしたら、いったい哲学とは何であろうか?
*ミシェル・フーコー「快楽の活用と自己の技法」・ミシェル・フーコー(小林康夫 石田英敬 松浦寿輝編)『フーコー・コレクション5 性・真理』ちくま学芸文庫 2006年
将来この文章を読み直した時、どのように感じるのか。楽しみでもあるし、ちょっと怖いような気もします。
(更新:2012年11月23日)