『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

ニューヨークの郊外住宅地:レヴィットタウンの歴史ミュージアム

今年(2008年)の秋、アメリカ東海岸の2つの郊外住宅地を訪問する機会がありました。ニューヨーク郊外のレヴィットタウン(Levittown)と、ワシントンDC郊外のグリーンベルト(Greenbelt)です。
いずれの街にも街の歴史を記録し、継承するためのミュージアムがありました。入居が始まったのはグリーンベルトが1937年、レヴィットタウンが1947年。1962年から入居が始まった千里ニュータウンと大きく時代が離れているわけではありませんが、次の点が特に印象に残っています。

  • 開発時に建設された住宅が、住民による手が加えられ多様な姿に変わり、住み続けられていること
  • 郊外住宅地の歴史を記録し、継承していくための仕組みや場所が整えられていること
  • いずれの街のミュージアムも大規模な施設でないものの、地域の方が熱心に案内してくださったこと

ここではレヴィットタウンについてご紹介したいと思います。

レヴィットタウンの概要

レヴィットタウンはレビット&サンズ社により1947年から1951年にかけて開発された郊外住宅地。大量の住宅を速く建設するためにレビット&サンズ社がとったのがベルトコンベヤー方式。Wikipediaには次のような説明がなされています。

通常の組み立てラインでは、労働者が静止し、製品がラインを移動する。が、レビットの住宅建設では、製品(の家)は移動することができない。そこで、各工程を担当する作業グループを、家から家へ移動させた。プレハブ工法もやめ、事前に組み立ての出来る独自の方式を編み出した。当時登場したばかりの電動工具を使い、素人同然の大工でも作業ができた。重要な部分は事前に工場で作っておいた。また、もっとも手間と金のかかるアメリカ固有の文化「地下室」を廃止しスラブ工法にした。
*Wikipedia「ウィリアム・レヴィット」のページより。

レヴィットタウンでは「ケープコッド」、「ランチ」の2種類の住宅が建設されました。

レヴィットタウンへのアクセス

レヴィットタウンはマンハッタン島の東、ロングアイランド島にあることはわかっていましたが、具体的な位置がわかりませんでした。ニューヨークに到着して、お住まいの方に住宅地図を確認していただき、次のようにアクセスできることがわかりました。

  • ロングアイランド鉄道(Long Island Rail Road)のヒックスヴィル(Hicksville)駅の南、6Kmほどの場所にあること
  • ヒックスヴィル(Hicksville)駅からはタクシーを利用した方がよいこと

ペンシルベニア(Pennsylvania)駅からロングアイランド鉄道に乗って40分ほどでヒックスヴィル駅に到着。駅からタクシーで、レヴィットタウンに向かいました。

※帰りは歴史ミュージアム前からタクシーを呼びましたが、1時間待ってもタクシーが到着しないため、タクシーを諦め、Hempstead TurnpikeとGardiners Aveの交差点付近のバス停まで歩き、路線バスでヒックスヴィル駅まで戻りました。

レヴィットタウン歴史ミュージアム

最初に向かったのは歴史ミュージアム(Levittown Historical Museum)。学校だった建物の1階に開かれた場所です(住所は150 Abbey Lane Levittown, NY 11756)。ミュージアムを運営する歴史協会(Levittown Historical Society)のメンバー、Pさんが案内してくださいました。

ミュージアムを入った正面には「ケープコッド」、「ランチ」の2種類の模型が置かれています。写真左側の模型が「ケープコッド」、右側の模型が「ランチ」。
Pさんは、住宅の建設方式について、各工程が2〜3人で行われたこと、部材は工場であらかじめ作られていたこと、当時は工事を担当していた人もこの方法で住宅を建設できるか不安だったことなどの話を聞かせてくださいました。また、最初は全て賃貸だったが、2年後から分譲が始まったこと、大変な人気で売り出しの2日前から大勢の人が並んだこと、そのため、翌日から整理券を発行したことなどの話も聞かせてくださいました。

ミュージアム内には昔の写真や新聞記事を展示したコーナー、当時の家具を使ってリビングやキッチンが再現されたコーナー、マグカップ、絵葉書、塗り絵などのグッズを販売するコーナーなどがありました。

Pさんの話によると、レヴィットタウンのミュージアムは、まち開き50周年がきっかけで開かれたとのこと。
50周年の時、校長先生の「今の子どもたちが、町の昔のことを知ることができるようになればいい」という話を聞き、Pさんはコレクションを作ることを思いついたとのこと。町の人から様々な物の寄付があり、倉庫に集めることでコレクションが膨らんでいった。そうして集めった物にキャプションを付けたり、写真を額に入れたりすることで、正式にミュージアムを開くことになった。Pさんからはこのような話を伺いました。

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千里ニュータウンが間もなくまち開き50周年を迎えること、それに向けて街の歴史を残したいと考えていることを話すと、Pさんから次のような言葉をいただきました。

「最初は、移動式の展示だって、期間限定のものだって、インターネット上だっていい。そこから始めて、私たちの場合は運良く常設のミュージアムを開けることになったの。」

レヴィットタウンの街並み

芝生の庭がある住宅が建ち並んでいます。庭の芝生は奇麗に刈られており、ハロウィンの飾り付けがされている住宅も。この日は平日だったためか歩いている人、道路を走る車はあまり見かけず静かでしたが、小さな子どもを庭で遊ばせている人を何人か見かけました。道に迷っていると思われ、車で通りかかった人に声をかけられました。その方は、「レヴィットタウンに興味があります」と伝えると、「ミュージアムに行った?」と教えてくださったのですが、このやりとりから、街のことを知りたければミュージアムへ、というかたちでミュージアムが定着していることが伺えました。

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Pさんから建設時のままの姿で残っている住宅があるという話を伺いましたが、逆に言えば、他の住宅は建築時のままの姿ではないということ。実際に街を歩くとこのことの意味がよくわかりました。建替えによって当初の住宅がなくなったからではありません。住民が様々なかたちで増改築したために、建設時からは大きく姿が変わったからです。このことについて、次のような指摘がなされています。

一九六八年には町開き二〇周年の記念イヴェントとして、「住宅改造コンテスト」が行われ、多くの住民が思い思いに手を加えたわが家の居心地をアピールした。それぞれのわが家として形や中身を変えたケープ・コッドやランチから成る二〇年後のレヴィットタウンは、もはや「インスタントな町」でも「低級な環境」でもなく、住宅群という点からも世代構成という点からも「画一的」とは呼びようのないコミュニティとなっていた。
*松村秀一『「住宅」という考え方』東京大学出版会 1999年

ニューヨークにお住まいの方からは、レヴィットタウンは大量生産によって作られた町だが、今ではそれぞれ個性的な家になっている。それは、アメリカでは住民は隣の家とは違うようにしたい個性を出そうとするからで、例えば、「隣がこれをやったから、うちはそれより良いものを」というようにどんどん自分たちで作っていくからだという話も伺いました。

1時間ほど町を歩いた後、再び、ミュージアムにもどりました。


レヴィットタウンを訪問し、短期間で大量に建設された住宅からなる街であるにも関わらず、まち開きから60年以上が経過した現在でも寂れることなく、成熟した住環境になっていることに驚かされました。日本では老朽化して建て替えという話が出そうですが、開発時に建設された住宅が、住民による手が加えられ多様な姿に変わり、住み続けられていることにも驚かされました。

歴史ミュージアムについては、個人の思いをきっかけに実現した場所であるという点が印象に残っています。これはレヴィットタウンのミュージアムだけではありません。今回、アメリカを滞在して同じような話を何度か聞きました。校長先生の話がきっかけとなったレヴィットタウンのミュージアム、1人の新聞への投稿がきっかけとなって生まれたグリーンベルト・ミュージアム(Greenbelt Museum)、ロザンヌ・ハガティという女性の思いがきっかけとなって生まれたコモン・グラウンドのザ・タイムズ・スクエア(The Times Square)。個人の思いが場所を作るのだということを教えられたように思います。

(更新:2018年5月20日)