「千里グッズの会」はこれまで千里ニュータウンの絵葉書を作成してきましたが、現在、千里市民フォーラムの方の協力を得て来年の年賀状を作成しようというプロジェクトを検討しています。
来年は千里ニュータウンのまちびらき50周年という記念すべき年ですし、是非、年賀状を作りたいですが、メンバー内で話になっているのは「ニュータウンらしい年賀状ってどんなもの?」ということ。
「年賀状の図柄として思いつくものを挙げてください」と訊ねられた時、多くの方が、干支や門松、富士山、初日の出、七福神、羽根つき、鶴などを挙げられると思います。年賀状の図柄には、「日本の伝統だと考えられているもの」という人々の意識が現れるのだと思いますが、それに対して、団地や窓の日除け、車道と歩道の交差するところなど、ニュータウンの風景を構成するものを年賀状の図柄として挙げられる方はほとんどいないと思われます。
ニュータウンの風景は、日本の伝統ではないので、年賀状の図柄としてふさわしくない…
そう言ってしまうと話は終わってしますますが…
年賀状のことを少し調べてみました。
届いた年賀状のお年玉くじが当選しているかどうかをドキドキしながら確認するというのは、お正月の一つの行事として定着していると思いますが、「お年玉付郵便はがき」は決して大昔からあったわけではなく、終戦後に登場したものなんですね。
お年玉くじの付いた年賀専用はがきのアイデアは一民間人が考案したもので、当時の郵政大臣などに何度も直談判して採用してもらったものだという。
お年玉くじの付いた年賀専用はがきのアイデアは一民間人が考案したもので、当時の郵政大臣などに何度も直談判して採用してもらったものだという。
1949年、当時京都在住で大阪にて洋品雑貨の会社を営む林正治(1909年(明治42年)〜1990年(平成2年)3月20日)が、「終戦直後で通信手段が十分でなかったこの時代にせめて年賀状が復活すれば、差出人・受取人ともに消息が分かり合えるであろう」と考えついたのがきっかけである。
*Wikipeidaの「お年玉付郵便はがき」のページより。
一民間人が考案したというのも面白いです。
Wikipediaにはこんなことも書かれています。
終戦後の1948年、特別取扱と年賀切手の発行が再開された。この年から年賀切手の図柄が干支にちなんだ郷土玩具のものになる。1949年、お年玉付郵便はがき(年賀はがき)が初めて発行され(官製はがきとしては初めての年賀はがき)、大きな話題を呼び大ヒットした。そしてこれを機に年賀状の取扱量は急激に伸びていった。なお、1955年にアメリカ軍占領下に置かれた沖縄でも年賀はがきが発行され、1956年には年賀切手も発行されている。お年玉付郵便はがきは当初、寄付金付きの葉書にくじが付いていたが1956年に寄付金無しの葉書もくじが付くようになった。1961年から年賀はがきの消印が省略され額面表示の下に消印に模した丸表示を印刷するようになり、1968年には郵便番号導入により郵便番号枠が追加された。
1970年代になると年賀はがきに絵や文字を印刷する年賀状印刷が盛んになり、1982年から寄付金付きの年賀はがきにの裏面に絵や賀詞が印刷されるようになった。1989年から年賀切手にも「くじ」が付くようになった。
*Wikipeidaの「年賀状」のページより。
年賀切手の図柄が干支にちなんだ郷土玩具になったのが1948年。
「お年玉付郵便はがき」が登場したのは1949年。
千里ニュータウンのまちびらきは1962年。たった12〜13年しか変わりません。
年賀はがきに絵や文字を印刷する年賀状印刷が盛んになったのは1970年と書かれていますので、これはもう千里のまちびらきより後のことです。
中層の箱型の集合住宅が並ぶニュータウンの風景は、ある意味、とても日本らしいと思うのですが、年賀状の図柄としては選ばれない。年賀状に干支の図柄を印刷したり、「お年玉付郵便はがき」を日本の伝統というなら、同じくらいの歴史をもつ千里ニュータウンの存在自体も立派な日本の伝統だと思うのですが… と言ったら、言い過ぎでしょうか…
話は逸れますが、郵便番号が導入されたのは1968年というのを初めて知りました。そうすると、まちびらきから数年間は、郵便番号枠のない年賀状が千里ニュータウンにも届いてたということですね。
もしそんな年賀状を今もまだ保管されてる方がおられたら、是非、見せていただきたいなと。そして、もし了承が得られたらスキャンさせていただいて、千里ニュータウンの歴史を伝える資料の1つに加えさせていただきたいなと思います。