『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

調査者の地域での役割

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「居場所ハウス」でいると、時々、取材に来た新聞記者だと間違われることがあります。大きなカメラを持って撮影しているからかもしれませんが、調査をしている者がどのように見られているか? は調査において非常に重要な問題になります。

地域の活動を調査する時、その地域に対してなるべく「不自然でないかたち」でいたいと思いますが、かと言って全く影響を与えずに調査することはできません。遠くから観察しているだけであっても影響を与えてしまいます。
建築計画の分野では時々、行動観察という手法が用いられますが、調査者は透明人間ではあり得ないため、「見慣れない人」「何をしているかわからない人」だと見なされた時点で、既に調査者は影響を与えてしまっていると言えます(隠しカメラを設置して盗撮するなら話は別かもしれませんが…)。

調査者は地域に対して何らかの影響を与えずにはいられない。これは考えてみれば当然のことかもしれません。

しかし(建築計画の分野の?)論文では調査者はいかに地域に影響を与えなかったか? いかに地域から影響を受けずに一貫した調査を行ったか? だけがアピールされがちで、調査者はいかに地域に影響を与えたか? いかに地域から影響を受けたか? という問いはなかったことにされていることが多い気がします。

調査者が地域に対して何らかの影響を与えてしまうとすれば、逆に、積極的に役割を担うという考え方もあると思います。活動を記録するというのが、「居場所ハウス」における役割の1つ。そして活動を記録することは、新聞記者だと勘違いされるほどには場違いな振る舞いではない。この意味で、積極的な役割を担った方が「不自然でないかたち」でいられるという可能性もあると思います。

「調査を、地域とは無関係な行為だと仮定すること」と「調査は地域と影響を与え合うものだとし、その影響はどのようなものかを把握しようと努めること」。前者を客観的だと言い切ってよいかどうかはわかりません。

先日、大阪府の千里ニュータウンにお住まいの方に次のような話を伺いました。

千里ニュータウンっていうのはご存じの通り、大学の先生方の色んな資料とりの場所で、町としても色んな協力はしてきたけども、協力した結果がどうなったかたも見たこともないし、我々に見返りって言ったらおかしいけど、「こういうものがいいですよ」とか「こういうものができました」とか、その結果は見えたことがない。内容すら報告も聞いたことがないからね。今まで山ほど協力してきてるから、今さら何をするんだっていうことを言ったわけです。

もちろん研究に求められるのは即効性だけではありません。長い目で見て、より良い社会を実現することに寄与することも大切な役割。その一方で、千里ニュータウンで伺った話を、東日本大震災の時はどうだっただろうかと考えてしまいます。

少し前にも同じことを書いたかもしれませんが、調査とは、調査者とは、社会において、地域においてどのような役割を果たすのか? その部分から考え直すべき時ではないかと思います。「色んな資料とり」をする以上に地域で果たせる役割があると思います。

なお、調査者の地域との関わりについて、社会学者のウィリアム・ホワイトは次のように述べています。

調査者には、演ずべき役割があり、そして、仕事がうまくとり運べる程度に気転のきくパーソナリティの資質が、求められる。調査者が大学から離れて、現地に出掛け、一回数時間を過ごすだけならば、現地の作業と切り離された個人の社会生活を維持することができる。彼自身の役割の問題と言っても、そんなにこみ入ったものではない。しかし他面で、調査者が研究しようとするコミュニティにしばらくのあいだ生活するとなると、彼の個人生活は調査の仕事と不可分にまじり合う。そこで、調査がどのようになされたかの真の説明として、調査者が研究期間のあいだ、どのように生活したかの個人的説明を内容とせざるをえない。
*「『ストリート・コーナーソサエティ』のその後の展開過程」・W・F・ホワイト(奥田道大 有里典三訳)『ストリート・コーナーソサエティ』有斐閣 2000年