『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

内部の人間でもなく、外部の人間でもなく

岩手県大船渡市の「居場所ハウス」に関わりはじめて3年半ほどになります。「居場所ハウス」の運営に対してはできる限りの協力ができればと考えていますが、「居場所ハウス」への関わりにおいていつも頭の片隅においているのは内部の人間でもなく、外部の人間でもないスタンスで関わるということ。そして、研究者というスタンスで関わるということ。

「居場所ハウス」には時々、視察や調査にやって来られる方がいます。自分自身が調査対象になる立場に立つという経験をすると、数時間や半日、話を聞いたり、滞在してぐらいでは「居場所ハウス」のことを伝えることはできないと感じます。外部から来ている人にはわからないことも多いのは当然かもしれません。
しかし、それと同時に、内部にいることでかえって見えなくなっていることもあると感じます。だから、内部にいながらも、外部の視点をもつというのはなかなか難しいですが、そのような立場に立つことを意識していることは大切だと。
そして、研究者というスタンスで関わることは、内部にいながら外部の視点をもつことを可能にする1つの方法だと考えています。

研究とは何かというのは様々な考え方があると思いますが、個人的には、研究において最低限求められるのは実態とともに現象を語るということ。アンケート調査であったり、実験であったり、あるいは、観察であったりインタビューであったりという様々な調査手法は、実態を把握するための方法。この意味で、研究には実態の記録という作業を不可避に持っている。
このことは、自分自身の分野である建築計画学にもあてはまります。計画と記録とは、将来を見据えるものと、過去を見据えるものと考えれば相反する概念ですが、「建築計画学」が学問である以上、上に書いた通り実態の記録という作業を含んでいる。こうして記録したものの扱い方によって、それを歴史として蓄積していくという可能性も開けてくるのだと思います。

「居場所ハウス」への関わりにおいて個人的に大切にしている手法は、日々のフィールドノートを書くこと。その書き方は実態(客観的な事実)と、それに対して感じたこと、考えたこと(主観的なこと)を明確に分けて書いておくということ。
もちろん客観的なことと主観的なことを明確に区別することはできません。客観的な事実として何を記録するかは、その時々で何に注目しているかによって大きく左右されます。そのような限界はあったとしても、両者を分けて書いておくことは大切です。
現在、ネパールではIbasho Nepalのプロジェクトが進められていますが、プロジェクトの活動を記録する際にも、客観的なことと主観的なことを明確に分けて書いていく方法をすすめました。

重要なのは客観的なことと主観的なことの両方を書いておくことであり、客観的なことだけを書くのでは不十分だということ。この点について、個人的には次のように考えています。

「居場所ハウス」のフィールドノートを日々書いていると、客観的なことに関する記述はどんどん蓄積され、膨大な量となる。その膨大な量の客観的なことを後から振り返って、どのような観点から考察していくかという時に、主観的なことに関する記述は大きな手がかりとなります。例えば、「最近「居場所ハウス」の雰囲気が良くなってきたと思う」という主観的なメモを書いておけば、そのメモを書いた前後の客観的な記述を見直すことで、雰囲気が良くなるとはどういうことなのか、どういう要因がありそうかを考察していくことにつながっていきます。

さらに、主観的なことを蓄積していくことで、後から振り返った時に、自分の思いや考えがどのように変化したのかというレイヤーで、客観的なこと(データー)として扱うこともできます。内部にいれば、当然ながらそこにいる人々の影響を受ける。自分の思いや考えもどんどん変わっていく。もちろん、これは良いことです。その時、フィールドノートとして日々の客観的なこと、主観的なことを合わせて書いてさえおけば、その時の自分に仮想的にではあれ立ち戻ることができるのだと思います。これは例えば、外部から地域に関わる者は、どのようなプロセスで地域に深く関わっていくのかという観点からの考察につながる可能性もあります。

なお、ウィリアム・ホワイトは『ストリート・コーナーソサエティ』において、研究者が地域において記録者になることの効果として次のように書いています。

「私がノートン団や他のいくつかのグループに受け容れられるようになるにつれて、私が周りにいるだけで、人びとが喜んでくれるように、できるだけ楽しく振る舞うように努めた。そして、同時に、グループに影響を与えるようになることは避けようとした。というのも、私がいてもできるだけ影響がないような状態を研究したかったからである。そこで、コーナーヴィル滞在中、私はひとつの例外を除いて、いかなる集団の役職や指導者的地位も引き受けることを避けた。一度だけ、イタリア・コミュニティ・クラブの幹事に指命されたことがあった。私の最初の気持ちとしては指命を断ろうとしたが、幹事の仕事は単に雑事——こまかい事の筆記や書状の整理——と通常は考えられているとのことだったので、思い直した。私は引き受けてみて、控えのノートをとる口実のもとに、開かれている会合の全内容を記録できることに気づいた。」
*W・F・ホワイト(奥田道大 有里典三訳)『ストリート・コーナーソサエティ』有斐閣 2000年

記録者という役割を引き受けることは、地域の活動に関わるための1つのきっかけになるのだと思います。

そして上に書いた通り、こうして記録したことの扱い方によっては、記録したことを地域に有用な情報として還元することもできると考えています。