『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

千里ニュータウンの思い出を募集しています。

千里ニュータウンは2012年(平成24年)、まちびらきから50年を迎えました。
ディスカバー千里(千里ニュータウン研究・情報センター)では、千里ニュータウンにお住まいのみなさまから、そして、就学・就職・転勤などで他の地域に転居された千里ニュータウンのOB・OGのみなさまから、千里ニュータウンの思い出をお聞きしています。

千里ニュータウンはみなさまにとって、どのような街ですか/街でしたか?
ぜひ、千里ニュータウンの思い出をお聞かせください

お寄せいただいた思い出は、こちらのページで紹介させていただいています。思い出として綴ってくださった言葉からは、人工的に作られた千里ニュータウンも、まちびらきから半世紀が経過し、この街を故郷とする人々がいることが伺えます。


かつて佐竹台、古江台にお住まいだった50代の男性から、次のような思い出をお寄せいただきました。

「ニュータウンというだけあって、建物や道路が先進的で整然としている印象でありながら、自然もたっぷりと残っていて、クワガタやバッタ、ザリガニ捕り、タケノコ堀りなど泥んこで遊べる場所もたくさんありました。洒落たボディーカラーの阪急電車は今でも一番好きな乗り物です。私の住んでいた佐竹台ハイツもなくなり、千里セルシーも取り壊されると聞き、寂しい思いですが、今でも千里が大好きで、いつかは戻りたいと思っております。今は関東に住んでおりますが、時々千里が恋しくなって、急に思い立って訪れたりしています。」
50代男性より

佐竹台ハイツ

かつて豊中市の新千里西町、新千里北町にお住まいだった50代の女性からは、次のような思い出をお寄せいただきました。

「私も千里を離れておりましたが母の介護の為に最近まで頻繁に通っておりました その合間に久しぶりの千里・・・ 懐かしくて想い出を探しながら沢山歩きまわりました 千里の歴史は私の成長と共にあります 街も変わり私自身も歳を重ねました そして千里中央が大好きだった母も亡くなりましたのでこれからは訪れることも少なくなります」
50代女性より

かつて新千里東町にお住まいだった40代の女性からは、次のような思い出をお寄せいただきました。

「2年前に千里に行った時に懐かしく探しましたが、高層マンションだらけで全くわからずさくら公園も探せませんでした。もう今はないのでしょうかね。懐かしいな。」
40代女性より

「今は関東に住んでおりますが、時々千里が恋しくなって、急に思い立って訪れたりしています」、「母の介護の為に最近まで頻繁に通っておりました その合間に久しぶりの千里・・・ 懐かしくて想い出を探しながら沢山歩きまわりました」、「2年前に千里に行った時に懐かしく探しました」という言葉から伺えるように、千里ニュータウンで育った方々にとって、今でもこの街は思い出の場所であり。それだけでなく、再訪したり、いつか戻ってみたいと考えたりというように、心の中にしまわれた思い出の場所であることを越えた具体的な関わりの場所でもある。

街のあり方を考える時、現在の住民のことがまず想定されます。このことは、例えば、住民自治という表現に現れています。もちろん、現在の住民を優先するのは大切なこと。
けれどここで見たように、街とは、かつての住民にとっての故郷でもあり、具体的な関わりの場所であり続けていることは忘れてはならないと思います。故郷であることを大切にして街のあり方を考えるというのは情緒的かもしれませんが、人々にとって故郷になることで、ようやく街は商品として購入する場所から、暮らしの場所へと成熟していくのかもしれません。