昨年、同じ大学研究室を出身された先生方と一緒に執筆した書籍『足立孝先生生誕百周年記念論文集:人間・環境系からみる建築計画研究』(デザインエッグ社 2019年)に、「居場所と施設:非施設としての居場所の可能性」(以下、「居場所と施設」)という文章を寄稿させていただきました。
この文章は、居場所の運営に携わり続けてきた方から伺った次の問題提起を受けて、居場所と施設の違いについての考察を試みたものです。
「今どこに行っても、立ちあげの目的は介護予防・健康寿命延伸のためと紹介されます。結果そうであることを願いますが、・・・・・・、参加される全ての方にとって日々の生きる喜びや楽しみ、自己実現の場であり、結果、地域に生きる安心につながることを願っています。そのために必要なことをプラスしながらやっていけたらと思っています。」
「居場所と施設」の内容に対していくつかのコメントをいただきました。コメントに答えるかたちで、居場所と施設の違いをどう捉えるかを考えてみたいと思います。
目次
居場所と施設における「要求-機能」関係
「居場所と施設」では生活科学研究を行う佐々木嘉彦(1975)と、佐々木嘉彦の議論を受けた建築学者の大原一興(2005)の「要求-機能」関係の議論をふまえ、居場所と施設との違いを次のように捉えました。
- 居場所:機能は、要求への対応を通して備わる
- 施設:機能は、要求に先行してあらかじめ設定される
このように捉えると、居場所の制度化とは、要求への対応を通して居場所に備わった機能(例えば、介護予防など)を抽出し、実現すべきものとしてあらかじめ設定するプロセスと捉えることができます。
居場所と施設の機能は全くの別物ではなく、「要求-機能」関係を変えることで居場所を施設のモデルにすることが可能になります。実際に、宅老所をモデルとした小規模多機能ホーム、コミュニティカフェや地域の茶の間をモデルにした通いの場が生み出されてきました。
「居場所と施設」では、「親と子の談話室・とぽす」(東京都江戸川区)、「下新庄さくら園」(大阪府大阪市)、「ひがしまち街角広場」(大阪府豊中市)、「居場所ハウス」(岩手県大船渡市)、「実家の茶の間・紫竹」(新潟県新潟市)の5つの場所を取り上げて考察することで、居場所と施設では人々の関わり方が異なっていることを見出した。
- 居場所:居られる(居合わせる、当事者)
- 施設:プログラムの参加者、サービスの利用者
また、「要求-機能」関係の違いから、居場所と施設では専門家に求められる役割が異なることに触れました。
- 居場所:要求にどう対応するかがテーマになる
・この部分のサポートが「インタープリター」*1)としての専門家に求められる。
・この場合の要求とは、居場所を訪れる顔の見える一人ひとりが抱いているもの。 - 施設:機能をどう設定するかがテーマになる
・この部分のサポートが「代理人」*2)としての専門家に求められる。
・この場合の機能は、顔の見える一人ひとりが抱いている要求とは切り離されたもの。
「居場所と施設」では、上で紹介したように、居場所が介護予防を目的として捉えられる現場に対する現場からの問題提起を受けたものであり、居場所と施設との比較により議論を進めました。
地域には居場所と施設という性質の異なる場所が必要だと考えています。それゆえ、居場所が施設のようになってしまうこと(居場所の制度化)は問題であり、専門家が代理人として居場所に関わることは問題だと考えています。
しかし、居場所と施設の優劣を論じることがが目的ではなく、居場所と施設では性質が違うことを論じたものであり、施設や代理人としての専門家の存在を否定するものではありません。
「居場所と施設」へのコメント
コメント:機能という表現がそもそも居場所にそぐわないのではないか
「居場所と施設」では、佐々木嘉彦(1975)の議論をふまえ、「目的達成(=欲求充足)において物がはたす(あるいは期待されている)役割(=働き)」の意味で捉えています。
そして、佐々木嘉彦の議論を受けた大原一興(2005)が、「先に要求があり、それに対して機能が発生する」関係が「本来の『要求-機能』関係」だと指摘しているように、本来、要求と機能は不可分のもの。
けれども、佐々木嘉彦(1975)が「建築計画の分野では建築の機能などというとき、住み手の要求ときりはなしてとらえる傾向がある」と指摘しているように、建築計画学においては機能と要求が切り離されて捉えられてしまう。
コメントの通り、機能という表現を施設に対して使うのは自然に感じるが、居場所に対して使うと違和感を感じてしまう。しかし、まさにこの違和感こそが、佐々木嘉彦の指摘する「建築計画の分野では建築の機能などというとき、住み手の要求ときりはなしてとらえる傾向がある」状況の現れであり、「居場所と施設」はこの部分に関わる議論を行うものです。
コメント:居場所が要求を引き出すという場合、その要求はそもそもそこにあるものなのか
「居場所と施設」で取り上げた場所の1つ、「下新庄さくら園」は大阪府による「ふれあいリビング」の第一号として開かれた場所です。
当初、大阪府は「下新庄さくら園」を喫茶(ふれあい喫茶)を中心とする場所として運営することを想定していました。けれども、オープンまでの住民らを交えた話し合いで、喫茶だけでは運営費を賄うことが難しいという意見が出されました。そこで、喫茶のための「喫茶コーナー」を狭くし、代わりにグループで借りて利用するための「だんらんコーナー」と「厨房」が計画されました。
「下新庄さくら園」はこのようにしてオープンしましたが、計画していた以上に喫茶(喫茶コーナー)が好評であり、グループで借りて利用するより、日常の喫茶の場所として定着したという経緯があります。
「居場所と施設」では、この経緯を、「日常の喫茶の場所が欲しい」という要求が引き出されたものと捉えました。
■計画に携わった人々の側から見ると
この経緯を振り返れば、「下新庄さくら園」の計画に携わった人々には、地域の人々が「日常の喫茶の場所が欲しい」という要求を抱いていることは見えていなかった、あるいは、見えていたとしても運営費を獲得するために重視することはなかった、と捉えることができます。
■地域の人々の側から見ると
地域の人々が「日常の喫茶の場所が欲しい」という要求を持っていたか否かについて、次の2通りの可能性を考えることができます。
- ①「下新庄さくら園」がオープンする前から、「日常の喫茶の場所が欲しい」という要求を持っていた。
- ②「下新庄さくら園」がオープンするまでは、「日常の喫茶の場所が欲しい」という要求を持っていなかったが、「下新庄さくら園」ができたことで、日常の喫茶の場所の価値を持つようになった。
現時点から遡って、①と②のいずれであるかを観察することはできませんが、重要なのは、次のような意味で「下新庄さくら園」がなければ「日常の喫茶の場所が欲しい」という要求は観察できなかったことです。
- ①の場合、要求を持つ人々がいても、「下新庄さくら園」がなければ、人々が日常の喫茶の場所に集まる光景を目にすることはなかった。
いずれの場合も、「下新庄さくら園」があるからこそ、「日常の喫茶の場所が欲しい」という要求が目に見えるかたちとして具現化することになったこと。この意味で、「下新庄さくら園」は人々の要求を観察可能なかたちとして引き出している、顕在化させていると捉えることができます。
ここでの議論のポイントは、「○○という要求を抱えている人がいる」というのではなく、「『○○という要求を抱えている人がいる』ことを認識している人がいる」という関係性に注目することです。
コメント:居場所には中心となる人物、キーパーソンが必要なのか
例えば、学校、病院、美術館などの施設にも校長、院長、館長という中心となる人物がおり、施設のあり方は多かれ少なかれ、中心となる人物の考えの影響を受ける。それゆえ、誰が校長、館長、店長に就任するかが重要な議題になる。肩書や呼称は様々ですが、施設においても中心となる人物、キーパーソンが必要だと捉えるべきだと考えています。
ただし、施設は規模が大きく、運営のあり方は制度によってある程度規定されているため、中心となる人物、キーパーソンが個人として浮かび上がる度合いは、居場所に比べると小さい(同じ病院でも、規模の大きな病院と、街の診療所とでは個人として浮かび上がる度合いは異なる)。これに対して、居場所は小規模であり、運営のあり方が制度で規定されているわけでないため、中心となる人物、キーパーソンが個人として浮かび上がってしまう傾向がある。
このように、中心となる人物、キーパーソンが個人として浮かび上がってしまう度合いは異なりますが、居場所でも、施設でも、中心となる人物、キーパーソンが必要であることに変わりはないと考えています。
コメント:プログラム/サービスがないと居場所に関われない人がいるのではないか
「居場所と施設」で取り上げた5つの場所のうち、「親と子の談話室・とぽす」、「居場所ハウス」ではプログラムが行われている時間帯もあり、居場所が必ずしもプログラム/サービスを提供していないわけではありません。
これを補足した上で、コメントの通り、「プログラム/サービスがないと居場所に関われない人がいる」のは事実だと思います。それと同時に、ある1つの居場所があらゆる人々に対応できないというのもまた事実だと思います。地域には、施設も含めて色々な場所があり、地域全体としてあらゆる人々に対応できる状況が実現されていればよいと考えています。
ここで考えたいのは、「プログラム/サービスがないと居場所に関われない人がいる」という問題提起はがなされる場合、あらゆる人々に対応することを居場所に期待しているのは誰なのかという点です。
あらゆる人々に対応することを居場所に期待しているのは、居場所の外部の人(専門家)であり、ここでは「「プログラム/サービスがないと居場所に関われない人」が抽象的な存在として想定されています。
けれども、居場所の現場においては「下新庄さくら園」の運営委員長による「駆け込み寺」、「ひがしまち街角広場」の代表による「枠からはみ出た人には対応できないって言ったらだめじゃないですか」という言葉に現れているように、その場所を訪れた顔の見える一人ひとりの要求には何としてでも対応することが考えられている。
このように考えると、居場所が対応するのは、抽象的に想定されたあらゆる人々ではありませんが、その場所を訪れた顔の見えるあらゆる一人ひとりに対応していくことが意識されていると捉えることができます。
コメント:取り上げている5つの居場所は成功事例か
居場所の現場においては様々な課題が見えてきます。一方、「この場所があってよかった」と思える出来事もあります。そのため、100%の成功、100%の失敗という評価はあり得ないと考えています。
専門家が外部から「この居場所は成功している、「この居場所は失敗している」と評価することは、居場所の現場においては意味を持たないのではないか。そうだとすれば、居場所の成否を評価することは誰が求めているのかという新たな問いも生まれてきます。
外部から居場所の成否を評価するのでないとすれば、専門家にはどのような役割が求められているのか。これについては、次の2つの役割があると考えています。
1つは、居場所の現場が直面している課題に対して、専門知識や技術と呼ばれるものを提供することを通して、全力でサポートすること。
もう1つは、居場所の現場から学んだことを、共有していくこと。「居場所と施設」で取り上げた5つの場所は、いずれ運営のあり方が変わったり、閉鎖したりすることがあるかもしれません。そして、居場所の閉鎖が失敗と評価されることになったとしても、その評価とは別に、現場から学べることはあります。現場から学んだことを、共有していく作業も、専門家に求められる役割です。
このような役割を担うのが、居場所に向かい合うインタープリターとしての専門家の姿ではないかと考えています。
コメント:居場所の計画の成否をどう考えるべきか
■居場所における計画
最初に書いた通り、居場所と施設では「要求-機能」関係が異なります。それに応じて、テーマとされることが異なります。
- 居場所:機能は、要求への対応を通して備わる
→それゆえ、要求への対応が大きなテーマになる - 施設:機能は、要求に先行してあらかじめ設定される
→それゆえ、機能の計画が大きなテーマになる
ただし、居場所においては要求への対応が大きなテーマになるとしても、何らかのかたちでの計画がなければ、居場所の運営を始めることはできません。
「居場所と施設」で取りあげた5つの場所のうち、「親と子の談話室・とぽす」、「下新庄さくら園」、「居場所ハウス」のように建物を新築する場合、どのような建物を建てるかを考えなければなりません。「ひがしまち街角広場」、「実家の茶の間・紫竹」のように空き店舗や空き家を活用する場合、どのように改修するか、どのように家具を配置するかを考えなければなりません。居場所がオープンするまでになされるこうした行為も計画であり、計画が必要という点において、居場所と施設には違いはないと考えています。
ただし、上に書いた通り居場所においては、計画の枠内に収まるか、収まらないかに関わらず、そこを訪れた顔の見えるあらゆる一人ひとりに対応することが意識されている。このことは、「下新庄さくら園」、「ひがしまち街角広場」についての次の言葉に現れています。
「ネットワーク委員だとか、福祉何とか、役所がたくさん作りますけどね、作らなくてもね、ほんとにこういうとこで、みんなできるんですわ、役なしでいっぱいできるんですわ。」
*「下新庄さくら園」についての発言
「応じたっていうことがものすごい大事なんですよ。それぞれに応じたものを、その場でできるというのが。青少年とか、成人期とか、高齢者とかに応じたじゃなくて、同じ成人でも色んなレベルの人がいるでしょ。だから、どこにも応じたことがやれる場所じゃないといかんわけでしょ、こういうところっていうのは。枠にはまってない、枠からはみ出た人には対応できないって言ったらだめじゃないですか。」
*「ひがしまち街角広場」についての発言
何らかの計画がなければ、居場所の運営が始まることはない。けれども、一旦、居場所の運営が始まった後では、計画の成否の評価が大きなテーマになることはなりません。なぜなら、居場所の現場においては、計画の成否に関わらず、計画(計画によって生まれた建物)を所与のものとした上で、そこを訪れた顔の見えるあらゆる一人ひとりに対応することがテーマになるからです。
■計画を所与のものとした上での対応
「下新庄さくら園」が生まれた経緯をもう一度振り返りたいと思います。
当初、大阪府は「下新庄さくら園」を喫茶(ふれあい喫茶)を中心とする場所として運営することを想定していました。けれども、オープンまでの住民らを交えた話し合いで、喫茶だけでは運営費を賄うことが難しいという意見が出されました。そこで、喫茶のための「喫茶コーナー」を狭くし、代わりにグループで借りて利用するための「だんらんコーナー」と「厨房」が計画されました。
「下新庄さくら園」はこのようにしてオープンしましたが、計画していた以上に喫茶(喫茶コーナー)が好評であり、グループで借りて利用するより、日常の喫茶の場所として定着した。そのため、「だんらんコーナー」も喫茶のために利用されることになったという経緯があります。
この経緯を、人々の「日常の喫茶の場所が欲しい」という要求を十分に把握できなかった、「喫茶コーナー」と「だんらんコーナー」を分離するべきでなかったという意味で計画の失敗と捉えることも可能です。
しかし、たとえ計画の失敗だったとしても、「下新庄さくら園」の現場の人々にとってみれば、建物を建て直してもらえるわけでも、計画に携わった人々に賠償を請求できるわけでもありません。
もしかしたら、「下新庄さくら園」の人々は「喫茶コーナー」と「だんらんコーナー」が分離されている建物は使いづらいと思っているかもしれません。けれども、既にある建物を所与のものとした上で、上手く使いこなしていくしかない。実際に、「下新庄さくら園」の運営委員長は、「喫茶コーナー」は1人で訪れた人が当番と話をするコーナーにしたい、「だんらんコーナー」は友人同士で話をするコーナーにしたいというように、計画によって生まれた建物を所与のものとした上で、新たな意味づけを行うことでそれぞれのコーナーをうまく使いこなそうとされています。
このように居場所の現場の人々にとっては、計画(計画によって生まれた建物)を所与のものとした上での対応を行うしかない。
「代理人」としての専門家にとって計画の成否の評価は重要なテーマになります。一方、現場の人々にとっては、「もし計画が失敗だった場合、専門家は現場にどのような責任を取るのか?」という議論がなされないなら、専門家の無謬性が前提とされているなら、計画の成否を評価することは意味を持たないように思います。
それでは、現場においてはどのような専門家が求められているのか。計画(計画によって生まれた建物)を所与のものとした上で、「それではどうするか?」(建物をどう改修するか、修繕するかも含む)を共に考え、専門知識や技術を提供してくれる存在ではないか。これが、「インタープリター」としての専門家の大きな役割だと考えています。
■注
- 1)インタープリテーション(Interpretation)には、理解、解釈、説明、通訳、そして、演奏、演技という意味がある。「13歳のハローワーク 公式サイト」にはインタープリターという職業が掲載されており、次のように紹介されている。
「自然学校やエコツアーなどで、自然の大切さや素晴らしさを参加者に伝える人。インタープリター(interpreter)とは、通訳者、解説者という意味だが、単に地域に生息する植物や野生動物に詳しいというだけではなく、地域の文化や歴史、さらにはそれらの背後に潜む意味や関係性にいたるまで精通していることが前提。その上で、参加者の興味を引きつけるエンターテイナーとして、話術にたけ、ツアープログラムを演出する力も求められる。世界自然遺産をはじめ、エコロジーに世の中の関心が集まる中、インタープリターの数はまだまだ少なく、やりがいのある仕事として注目度も高い」。
/li> - 2)佐藤航陽(2015)があげている3つの社会システムの1つ、「ハブ型の近代社会」において、ハブの位置に立つ存在。/li>
■参考文献
- 大原一興(2005)「施設と地域の再構築」・『建築雑誌』Vol.120, No.1533, pp.20-21
- 佐々木嘉彦(1975)「生活科学について」・日本生活学会編『生活学』第一冊, ドメス出版
- 佐藤航陽(2015)『未来に先回りする思考法』ディスカヴァー・トゥエンティワン
- ダチケンゼミ編(2019)『足立孝先生生誕百周年記念論文集:人間・環境系からみる建築計画研究』デザインエッグ社