先日、岩手県盛岡市にある盛岡バスセンターから、大船渡市への高速バスに乗車しました。
盛岡バスセンターは、1960年、自動車ターミナル法が適用された日本初のバスターミナルとして開業しました。2016年に閉鎖されましたが、その後建て替えられ、2022年に新たなバスターミナルとして開業しました。
新たなバスセンターは3階建てで、バスセンターと商業施設、宿泊施設などからなる複合施設。建物は、1階、2階は大きく東西のブロックに分かれており、3階で東西のブロックをつなぐ構成になっています。この建物の北側の1階部分が、バス乗り場になっています。
西側のブロックは、1階がバスターミナル、2階が子育て支援センター。東側のブロックは、1階がマルシェ、2階がフードホール。フードホールは、店舗の営業時間以外もフリースペースとして開放されていました。3階がホテル、スパ、カフェ・ラウンジなどで、スパは日帰りの利用も可能です。
- 1階(西側エリア):バスターミナル
待合室、発券所(岩手県北バス、岩手県交通)、みちのくトラベル東北、そば処南部、Quick kitchen “K”
- 1階(東側エリア):マルシェ
保険クリニック、阿部魚店、BBURGER MARU、茶菓はなむけ、福田パン- 2階(西側エリア):子育て支援センター・あそびの広場
- 2階(東側エリア):フードホール
ビアバーベアレン、Wine Restaurant TAKU、焼鳥とめし・清造
- 3階:ホテル・マザリウム、ラウンジ(Cafe Bar West38)、カナン・スパ、穐吉敏子ジャズミュージアム、屋上広場、屋上テラス
※盛岡バスセンター内の掲示より作成
新たなバスセンターは、バスターミナル部分を盛岡市、それ以外の部分を盛岡ローカルハブ株式会社が運営するという、公民連携により運営されています*1)。
パブリックな場所について、人が訪れたり、過ごしたりする理由ということを考えます。人がある場所を訪れたり、過ごしたりするためには、「なぜ、その人がここを訪れたのか、ここで過ごしているのか」が、居合わせている他者にも明らかな理由が必要だということです。そのような理由がなければ、居合わせている他者から怪訝な目を向けられてしまう恐れがある。
東畑開人(2019)は、臨床心理士として「居場所型デイケア」に着任した当初のことを振り返り、「何か『する』ことがあると、『いる』が可能になる」と述べています。
「居るのはつらいよ。
何もしないで『ただ、いる、だけ』だと穀潰し系シロアリになってしまった気がしてしまう。それがつらいので、それから何か月ものあいだ、僕は何かをしているフリをすることにした。
本棚を眺めて『ん。』とうなずいてみたり、もらった就業規則の紙を熟読して蛍光マーカーで線を引いてみたりした。あるいはトランプが全部の枚数そろっているか確認してみたり、挙句の果てには机の木目を数えることまでしていた。
そうやって、何か作業をしている感じが醸し出されると、自分が一瞬ダンディな医療人になっているような気がするからだ。
何か『する』ことがあると、『いる』が可能になる。
だから、カウンセリングの仕事があるとホッとした。実際に何かをしていたからだ。『おれはちゃんと働いているのだ』と思えた。だけど、働きはじめた当初の四月、五月は、カウンセリングの担当数も少なかったので、『する』ことが全然なかった。だから、カウンセリングの記録を書いているフリをして、カウンセリング室で隠れてボーっとしていることもあった。これはもうホンモノのシロアリ的穀潰しなので、やっぱりひどく気が滅入った。
だから、結局のところ、座っているしかない。
デイケアは座るに始まり、座るに終わるのだ。」(東畑開人, 2019)
バスに乗車するまでの時間、少し滞在しただけの印象に過ぎませんが、盛岡バスセンターで見かけた光景を振り返ると、飲食店で食事をする人、ビールを飲む人、ホテルにチェックインする人、日帰りのスパを利用する人など、様々な人を見かけました。様々な人が訪れたり、過ごしたりする理由が複合された場所になっていると感じました。
それだけでなく、マルシェやフードホールのテーブルに、飲食することなく、1人で座っている人、屋上テラスで話をしている高校生など、必ずしも商業施設や宿泊施設のお客さんとして過ごしているように見えない人を見かけたのも印象に残っています。恐らく、バスを待っていたのだろうと思います。
ここで思い起こすのが、次のアーヴィング・ゴッフマンの議論です。
「さらに、自分の本来の仕事から気をそらしているという印象を与えるだけでなく、なすべき仕事をまったくもっていないという印象を与える人びとがいる。現在の状況の外にはっきりした目的をもたずに公共の場所にいることは、のらくら行為とか、ぶらつき行為とか呼ばれる。場所の位置が固定している場合はのらくら行為と呼ばれ、その位置が移動する場合はぶらつき行為と呼ばれている。そして、どちらも不当な行為と見なされる。都市の街かどで、特にある時間帯に、何もしていないように見える人には誰にでも、警察は職務質問して「そこからの移動」を求めることができる(・・・・・・)。」
「『無目的』でいたり、何もすることがないという状態を規制するルールがあることは、次の例を見れば明らかである。のらくら行為を正当化したり隠したりするために、課されているわけでもない関与を利用すること――誰の目にも明らかな行為をすることで自分の存在を粉飾する行為――がそれである。だから、仕事中に『休憩』したい人は、喫煙が認められているところへ行って、そこで目だつように煙草を吸う。また、ほんのちょっとした『気晴らし』の行為が、何もする仕事がないという状態を隠す手段として用いられたりする。たとえば、魚などはいないから自分の瞑想が妨げられるおそれのない河岸で『魚釣り』をしたり、あるいは浜辺で『皮膚を焼いたり』するのは、瞑想や睡眠を隠すための行為である。」
アーヴィング・ゴッフマンが「自分の存在を粉飾する行為」と指摘しているように、訪れたり、過ごしたりする理由は、居合わせている他者からそのような理由として見えることが意味をもつ場合もあるということです。
盛岡バスセンターで見かけた人が、「自分の存在を粉飾」していたと言いたいわけではありません。重要なのは、これらの人々について、バスを待っていたのだろうと思えたことです。他の人も、このような思いを抱くとすれば、バスセンターにおいては「待つ」ことそのものが、そこで過ごす理由として成立するのだと気づかされました。つまり、過ごしている人が、たとえ何かをしていなくても、周りの人からバスを待っているように見えること、周りの人から「この人はバスを待っているのだろうな」と想像してもらえること。盛岡バスセンターが、ゆったりとした時間が流れていると感じたことも、このことに関係があるのかもしれません。
バスセンターは、交通の結節点として、バスの乗降という役割が期待されるのは当然のことですが、「待つ」ことそのものが、そこで過ごすための理由として成立する場所が、複合施設というかたちで街に開かれていることも大切なことのように思いました。
■注
- 1)盛岡バスセンターの公民連携については、矢島進二(2026)で紹介されている。
◾️参考文献
- ゴッフマン、アーヴィング(丸木恵祐 本名信行訳)(1980)『集まりの構造:新しい日常行動論を求めて』誠信書房
- 東畑開人(2019)『居るのはつらいよ:ケアとセラピーについての覚書』医学書院
- 矢島進二編著(2026)『準公共をデザインする:〈公〉と〈私〉が溶けあう居場所の実践』学芸出版社




















