『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

隣人祭り

最近、「隣人祭り」という言葉を時々見聞きする。

色づいたイチョウが降り積もった公園。「初めまして」。あいさつを交わす高齢者らは同じ団地の住民だ。「隣人祭り」と題したコミュニティーづくりのイベントが昨年十一月、東京都立川市の富士見団地(約八百八十戸)であり、住民約二百人が参加した。
呼び掛け人は同団地に住む自営業、鈴木一広さん(69)。約四十年前に開発された団地は高齢化が進む。「ゴーストタウンになってしまう」との声も漏れ「あいさつ以上の関係を築きたい」と活動を始めた。
翌月、団地内を歩いていると見知らぬ高齢男性が近付いてきた。持病や家族との関係など、悩みを打ち明けられた。初対面の自分に個人的な相談を寄せる男性の話を聞きながら鈴木さんは感じた。「寂しくて話し相手を求めているのに周囲にいない。同じような住民が団地には多くいる」
*「身構えれば深まる孤独」・『日本経済新聞』2009年1月4日

「隣人祭り」は今から20年程前にフランスで生まれたイベントで、年に一度、地域の人々が集まり、食事をしながら話し合うというもの。同じマンションに住む高齢者が孤独死したことがきっかけとなり、「マンションの住民同士の関わりがあればこんなことは起こらなかったのではないか…」こんな思いを抱いたアタナーズ・ペリファン氏の呼び掛けによって生まれたという。今では、ヨーロッパ各地に広まっており、近年では日本にも広まりつつある。昨年末には、ペリファン氏が来日している。

自身の生活を振り返っても、日々の生活ではなかなか地域の人々と接触する機会はない。だから、まずは地域の人々が接触するきっかけつくりとしてイベントを行なうのは重要なのかなと思う。最終的には、わざわざイベントなんて行なわずとも、ご近所づきあいができるようなコミュニティが築かれていけばいいのだろうけど。

分子生物学者の福岡伸一氏も、来日したペリファン氏と会われたようである。「隣人祭り」に触れて、福岡氏は次のようなことを書いている。

ペリファンさんの話を聞いて、細胞の交流を思い出した。私たちの身体は、脳細胞、肝細胞、皮膚細胞という具合に専門化している。けれども、どの細胞も、もとから自分の天命を知っていたわけではない。DNAに細胞別の命令が書き込まれていたわけでもない。・・・・・・
しかし細胞数がある程度増えると、細胞は互いに接触し、情報を交換しあう。どんな会話がかわされているのだろう。それはたとえていうならこんな感じだ。君が脳の細胞になるなら、僕は肝臓の細胞になろう。そっちが皮膚を作るなら、こっちはその下にある筋肉を作ろう。細胞たちはコミュニケーションを通して、相互補完的に自分の役割を決めていくのである。つまり自分のあり方は社会性に依存する。それゆえにこそ生命は柔軟で、可変的であり、また適応的なのだ。つまり細胞はいつも隣人祭りを心がけている。
*福岡伸一「隣人祭り(あすへの話題)」・『日本経済新聞』2008年12月11日

「自分のあり方は社会性に依存する。それゆえにこそ生命は柔軟で、可変的であり、また適応的なのだ」。考えさせられる言葉だなと…