日本では、親が子どもに対して「お前はうちの子ではない。○○から拾って来た子だ」と言う習わしがあるようです。
竹内徹氏の『お前はうちの子ではない、橋の下から拾って来た子だ』(星和書店,1999年)は、この言い習わしについて書かれた本。竹内氏の調査によると、○○に入るのは本のタイトルにもなっている「橋の下」が多いようですが、「川」「道端」「林や森」など色々なバリエーションがあるとのこと。
「お前はうちの子ではない。○○から拾って来た子だ」と言われた記憶が自身にもあります。○○に入る言葉は近所にある神社の鳥居。夜寝る時に、布団の中で言われることが多かったような気がしますが、怒られた時に言われたわけではなかったように思います。親は、こう言われた子どもが「そんなことない」と反論するのを聞いて楽しんでいたような感じでした。
かつて、子どもとは作るものではなく、授かるものだった。竹内氏は「お前はうちの子ではない。○○から拾って来た子だ」という言い習わしは、子どもとは授かるものだという意識とどこかで繋がっているのではないかと指摘しています。
この言い習わし「お前はうちの子ではない。○○から拾って来た子だ」というのはなんの根拠もない「言い習わし」のようにも思えるが、私はこの「言い習わし」の中に込められている、自分の子ではあるが、自分の子ではないという考えにひっかかる。それは、かつて日本人は「子は授かりもの」と言ったのである。神や仏から授かったのだ。その結果、「縁あって親子になった」のである。この考えの背景にあるのは「輪廻転生」という考えではないだろうか。
*竹内徹『お前はうちの子ではない橋の下から拾って来た子だ』星和書店 1999年
かつて、親が子を一度捨てて、すぐに拾うという風習もありました。豊臣秀吉の子、秀頼の幼名が拾丸(ひろいまる)というのは有名な話ですが、竹内氏は「お前はうちの子ではない。○○から拾って来た子だ」という言い習わしは、この風習にも関係あるのではないかと述べています。
整理して言うと、この「言い習わし」の以前に、赤ん坊が無事に育つようにと願う親の気持ちをこめた「捨て」てすぐに「拾う」という習俗があったと思われる。それがいつしかこの「言い習わし」に変化していったのではないだろうか(勿論、習俗は習俗として残ったとも考えられるが)。ところが、この「言い習わし」を言ったり言われたりしているうちに、そこには悲しみや苦しみの疑似体験といった意味がこめられていて、あるいは躾に役立つことにも気がついたかも知れない。そして、この「言い習わし」は言ってみれば「生活の知恵」的な意味をもって言い継がれてきたのではないだろうか。
*竹内徹『お前はうちの子ではない橋の下から拾って来た子だ』星和書店 1999年
この言い習わしの○○に入る橋の下や川、鳥居などの場所に共通するものは何か?
それは、私たちが日々生活している世界と、別の世界とをつなげる場所だと言えます。三途の川という言い方もあるように、橋は川の向こうにある世界への入口であり、鳥居はもちろん神の世界への入口。
話はニュータウンに変わります。
哲学者の鷲田清一氏は古い都会にあってニュータウンにないものとして、「大木」、「宗教施設」、「いかがわしい場所」の3つをあげています。
古い都会にあってニュータウンにないものが三つある。大木と、宗教施設と、いかがわしい場所である。
これら三つのものに共通しているものはなんだろう。
大木は、せいぜい親子三代の同時代をはるかに超えてそれとは別に流れる時間、自然の悠久の時間に属している。お寺や社や教会といった宗教施設は、わたしたちが日常生活のなかで共有しているごくふつうの世界観や感受性とは別次元の、脱俗的な価値や超越的な価値を宿している。近づくのがちょっと怖いような薄暗くていかがわしい場所は、鬱屈した不良たちがたまり場にする都市の闇を象徴している。
大木と宗教施設といかがわしい場所に共通しているのは、どうもこの世界の〈外〉に通じる入口や裂け目であるということらしい。
・・・(略)・・・
こういう暗がりや吹き溜まりはだれもあえて作ろうとはしないし、また作ろうと思って作れるものではない。それらは人びとが集い、行き交うなかでおのずからできてくるもので、設計してすぐにできるものではない。だから、妖しいけれども、ちょっと怖いけれども、これらは都市の大事な財産なのである。
これに比べて、ニュータウンが「安全で清潔で快適」でありながらどこか「浅い」印象をあたえるのは、プランナーにまだ生活のすべて、人生のすべてが設計できるという思い込みがあるからではないだろうか。設計できないもののために場を空けておくということが、なかなかできないからではないだろうか。
都市にはどこか不幸を吸収する装置がいる。不満や鬱屈をガス抜きする場所がいる。じぶんをゆるめることのできる場所、つんとすましていなくていい場所がいる。
ひとが群れているのにだれかから見られていると意識しないでいられるのが、都市のいいところだ。そのとき、パチンコ店やゲームセンターの騒音も電気店の呼び込みも往来に漏れてくる音楽もみな、心地よいセッティングになる。梅田の地下街のにぎわい、道頓のざわつきに救われているひとはかならずいる。
*鷲田清一『普通をだれも教えてくれない』潮出版社 1998年
ニュータウンとは、「この世界の〈外〉に通じる入口や裂け目」が存在しない街だとしたら、「お前はうちの子ではない。○○から拾って来た子だ」という言い習わしは成立し得ないのか。
もし、ニュータウンでもこの言い習わしが成立しているとすれば、○○にはどのような場所が挙げられるのかは非常に興味深いことだと思います。
(更新:2018年8月19日)