HDB(Housing and Development Board:住宅開発庁)が開発しているシンガポールのクイーンズタウン(Queenstown)を歩いた時、宗教施設をいくつも目にしたのが印象に残っています。
千里ニュータウンでは宗教施設が計画的に配置されることはありませんでした。上新田地区にある神社や、古江台の公園内のお稲荷さんなど、開発されなかった場所に宗教施設が残されているという印象があります。
クイーンズタウンはそれとは対照的です。キリスト教の教会、イスラム教のモスク、中には映画館(?)を改修した教会もありました。
哲学者の鷲田清一氏は、ニュータウンにないものとして「大木と、宗教施設と、いかがわしい場所」の3つをあげ、これらに共通するのは「この世界の〈外〉に通じる入口や裂け目」だと指摘しています。
古い都会にあってニュータウンにないものが三つある。大木と、宗教施設と、いかがわしい場所である。 これら三つのものに共通しているものはなんだろう。 大木は、せいぜい親子三代の同時代をはるかに超えてそれとは別に流れる時間、自然の悠久の時間に属している。お寺や社や教会といった宗教施設は、わたしたちが日常生活のなかで共有しているごくふつうの世界観や感受性とは別次元の、脱俗的な価値や超越的な価値を宿している。近づくのがちょっと怖いような薄暗くていかがわしい場所は、鬱屈した不良たちがたまり場にする都市の闇を象徴している。 大木と宗教施設といかがわしい場所に共通しているのは、どうもこの世界の〈外〉に通じる入口や裂け目であるということらしい。 これらはみな、わたしたちの日常の共通の感覚(コモン・センス、つまり常識である)を超えているという意味で、妖しい存在だ。恐ろしいけれども、どこか魅かれるもの。この世の〈外〉へと通じる暗い窓。そして不幸の深い陰。最近の学校でいえば保健室やトイレのようなもの、雑誌でいえばいかにもいかがわしい商品広告や会員募集が掲載されている頁のようなもの。
*鷲田清一『普通をだれも教えてくれない』潮出版社 1998年
クイーンズタウンを歩いて、鷲田氏のこの指摘が頭に浮かびました。国民の約8割がHDB(Housing and Development Board:住宅開発庁)が建設する住宅に住んでいるというシンガポールという国では、団地の外部に相当する土地が十分に残されているとは考えにくい。
案内してくださった方の話では、シンガポールでは木がすぐに大きくなるので、「大木」というのは北の概念ではないか、と。
シンガポールの団地では、様々な宗教にまつわるイベントが行われると伺った話を思い出しました。
鷲田氏が指摘するように、日本では「大木と、宗教施設と、いかがわしい場所」がニュータウンの地理的な意味での外部にあるとすれば、シンガポールではこれらが(大木はない?かもしれませんが)計画された団地内にあったり、イベントという非日常的な時間に現れているのかもしれない。団地の国シンガポールで、人々は「この世界の〈外〉に通じる入口や裂け目」と、どうつきあいながら暮らしているのだろうかと思います。
話は少し逸れますが、千里ニュータウンの第一世代の人々は、地方から出てきた人々。言い換えれば、故郷(ふるさと)をニュータウンの外に持っている方々です。
それに対して、第二世代、第三世代の人々の中には、千里ニュータウンで生まれ育った人々も多いと思われます。そういう人々に対して、「あなたの故郷(ふるさと)はどこですか?」と聞くと、父母あるいは祖父母の出身地を思い浮かべるのでしょうか、あるいは、自身が生まれ育った千里ニュータウンのことを思い浮かべるのでしょうか。