2012年は、千里ニュータウンのまちびらき50周年です。
新年最初の記事ということで、千里ニュータウンの歩みを少し振り返ってみたいと思います。
千里ニュータウンは、今から半世紀前「夢のニュータウン」として計画・開発されました。
この度、大阪府で計画しました千里ニュータウンは、大阪の中心部より約15粁(キロメートル)、時間にして約30分のところにあり、しかも国鉄、京阪神の交通幹線が集まる地域に近い吹田市北部、豊中市東部にまたがる丘陵地帯1,200万平方米(約350万坪)で、自然の風美を生かし変化に富んだその地形は住宅地として絶好の環境にあり、近来他に類を見ない夢のニュータウンとして総合的に開発されております。この計画においては地域全体を12の地区に分け、各地区ごとに各種の住宅は勿論、これらの居住者の利便に供する文教施設、近隣センター、診療施設、緑地公園等が計画的に配置され、上下水道施設の完備は申すまでもなく交通機関としては、阪急千里山線の延長の確定、地下鉄の乗り入れ計画および地域内環状バスの運行、その他主要路線の整備等特に教育、厚生、衛生各方面に亘る総合的な配慮がとられております。
*大阪府千里丘陵分譲住宅 販売パンフレットより
「近来他に類を見ない夢のニュータウン」として誕生した千里ニュータウン。当初は居住者の平均年齢も低く、例えば、まちびらきから約10年が経過した頃に発行された『千里』(発行:大阪府千里センター)には次のような記事が掲載されています。
千里ニュータウンは、当初、人口15万人世帯数3万7千戸のまちとして計画され、昭和49年1月末現在、人口12万7千余人、世帯数3万9千余戸となっている。世帯数は最初の計画を上まわっているのに、人口が下まわっているのは、当初の計画では一世帯四人と計算したのに、実際は一世帯当り家族数は3.4人程度と核家族化が進んでいるためと思われる。左図の年齢別人口表を見ると、若夫婦と幼児の数が圧倒的に多く、高・老年層と青・少年層が極端に薄く“ひょうたん型”をなし、大阪市などの旧市の年齢別人口表の“クサビ型”と著しく異なっている。
千里ニュータウンを構成するのは、働き盛りの若夫婦に、子供が一人か二人の“核家族”である。三、四才から小学生の学童が多く中学生、高校生、成人の層が著しく薄い。ここで“ひょうたん型”にくびれた人口は、女子で三十二才、男子で三十八才あたりがピークとなってふくれ上る。高・老年層も極端に少い。(六十才以上は約六千人で全人口の6%)
大阪府全体の年齢構成とくらべると、千里は20才代と40才代の人口割合が府下の二分の一しかなく0-6才、32-36才が逆に二倍となっていて、千里は若い世帯のまちといえる。しかし、一戸建て住宅層(全世帯の約二割)では、世帯主の年齢が比較的高く、全般にいろいろな年齢層をふくんでいる。建設途上の四十三年ごろは、月に一、二万人も人口が増えたこともあったが、建設の進むにつれて増加の伸びがにぶり人口増が落ち着きはじめ、建設の終った三十八年度にはいると、逆に僅かながら減少する月もでてきた。これは勤め先の転勤、マイホーム完成による団地脱出が大部分を占めている。
住宅の建設がすすみ、ほぼ最初の計画通りの人口、世帯数に近ず〔づ〕いてきて、その増加の伸びがにぶってくると、人口増加の中身は社会増(転入・転出)から自然増(出生)にうつり変っている。
社会増は、だんだんと年を減るごとに転入人口が少くなり、反対に転出がふえ、昭和47年には転入転出ともほぼ同数となっている。
大阪府下の世帯当りの人数は減少しつづけているのに、千里では最初から3.3人~3.4人とつねに変化がなく、これまでの千里の人口増加は、世帯数増加によるものが多い。これは、全戸数の四分の三を占める賃貸住宅の、一戸当りの住宅の広さに起因しているようである。つまり、一戸に3、4人以上は住みにくい広さの住宅が多いからではなかろうか。
千里ニュータウンの全容がほぼ完成した今日、転入・転出の多い仮住いのまちとなるか、定住しやすいまちとなり豊かなコミューニティを育てることができるか、今後の課題として問われる問題であろう。
*「千里ニュータウン 年齢別人口」・『千里』第112号 昭和49年(1974年)3月1日 財団法人大阪府千里センター
「働き盛りの若夫婦に、子供が一人か二人の“核家族”」で主に構成されていた街だったのが、年月の経過とともに親の世代の年齢は上昇し、子どもの世代も成長し、親のもとを独立してく。次第に、千里ニュータウンでも高齢化について言及されるようになっていきます。まちびらきから約20年が経過した頃には次のような記事が書かれています。
千里ニュータウンの年齢構成は年を追うごとに厚みをましてきています。まちびらきしたころは「30代前半の若夫婦と幼児」が圧倒的に多かったのが、最近では、各年代のバランスがとれてきました。
・・・・・・
極端にいえば、20代前半の若者と高齢者は、他都市に比べかなり少なくなっていますが、中年と若年のバランスは、よくとれてきた、といえましょう。定着度が示す高齢化
この“二つ菱(ひし)型”から“ひょうたん型”への移行はどのように受け止めればいいのでしょうか。
一ついえることは、定着度が高くなったことです。30代前半の方が多いのは、新しく入って来られた家庭が多いことを示していますが、30代後半から50代にかけての親集団の大半は、少なくとも10年前から住んでおられる方とみてもいいのではないでしょうか。
千里は、決して若夫婦と幼児中心のまちではなくなりました。これまでは同じ世代の人が圧倒的に多く“横のつながり”(年齢的に)であったのが、いま、そして今後は、幅広い年代の方々とお付き合いをする“タテのつながり”になってきたともいえましょう。
*「千里ニュータウンの年代別人口構成」・『千里』第216号 昭和57年(1982年)11月1日 財団法人大阪府千里センタープレハブ教室は昔の話・・・小学生も激減
学級数は減る一方 ただし転出は意外に少ない
千里ニュータウン(吹田市側)の人口は年々減少傾向にあり、小学校の児童数も五十年をピークに減少。その半面おとしよりの人口がふえ、独居老人は五十五年当時百二十九人だったのが五十八年は二百十八人になっています。千里地域の年間異動率は約一〇%ですが、不思議なことに公団賃貸住宅のあき家発生は、住み心地がよいのか五%前後となっていることがわかりました。千里ニュータウン吹田市側八住区の人口の推移は、住民基本台帳によるとピークに達したのが五十年の二万七千六百七十五世帯八万六千四百八十八人で、そのごは五十五年が二万六千七百五十七世帯八万千七百九十七人、五十八年ではこれがさらに二万六千六百七十七世帯七万八千六百三十八人に減っています。
これと比例して目立つのが小学校の児童数の減少。ピーク時の五十年は一万一千四百六十九人、二百七十八学級ありましたが、五十五年は九千八百八十四人、二百四十七学級になり、五十八年は八千七十六人、二百七学級(養護学級は除く)となっています。プレハブ教室でしのいでいたのは嘘のような話。・・・・・・ところで、この一月公団千里営業所がまとめた豊中市域も含めた千里ニュータウン内の団地別あき家発生年をみると五十四年当時は、津雲台が九・九、青山台八・九、新千里北町六・三、新千里西町八・八、竹見台一二・三、高野台八・七、桃山台一七・五、新千里東町一四・八、桃山市街地住宅一四・一%、全体では一一・一%でしたが、五十五年は八・五、五十六年は八・一、五十七年は六・一%に落ちています。
五十七年度の団地別あき家発生年をみると津雲台は四・五、青山台五・四、新千里北町四・一、新千里西町四・三、竹見台六・七、高野台三・二、桃山台五・七、新千里東町八・九、桃山市街地住宅七・七%というのが実情。1DKのある新千里東町、竹見台が、なかでは高くなっていますが、住み心地がよいのか、便利なためか、千里の公団住宅では定住化がすすんでいるとみられます。
*「千里の人口なぜか下降線 ピーク時にくらべ8000人もダウン」・『奥さま新聞』1984年3月14日
次は、まちびらきから約30年が経過した頃の記事です。
20際前後と50際前後が最多 37,657世帯 108,813人
出生がますます減り、高齢化が加速 意外に少ない30歳代千里ニュータウンの人口は年々減り、出生率の低下と高齢化が進んでいます。このまま行きますと、児童・生徒の減少で、教室がますます広くなり、65歳以上の高齢者が全人口の1割を越すのも時間の問題となりました。
1990年(平成2年)10月に行われた国勢調査をもとに、人口の年代別構成と住区別の実数をまとめてみました。
《人口の動き》
高齢者(65歳以上)は9,032人(8.3%)
千里ニュータウンの人口は、1975年(昭和50年)の128,993人(吹田・豊中両市の住民基本台帳記載数による)をピークに、年々減少のいちずをたどり、この15年間でおよそ2万人減りました。出生率の低下が大きな原因と思われます。
今回の結果をみても、14歳以下の子集団は親集団よりかなり低く、9歳以下は11,522人で、5年前(14,893人)に比べても3千人以上も減り、なお減少傾向を示しています。
「若夫婦と幼児のまち」といわれたニュータウンの初期の面影は全くなくなり、最近は「若者と中高年のまち」の形に。これは定住化が進んでいることも物語っています。《年代別の構成》
多い40歳代と50歳代、少ない30歳代
グラフでみますと、まず40歳代と50歳代が多いことがわかります。特に、会社勤務の定年近くの人がかなり多いのが注目されます。
それに比べ30歳代は比較的少なく、30歳代前半の人は50歳代前半の人より3割近くも少なくなっています。
また、15歳から24歳までの若者が多いのも目につきます。第2次ベビーブームの影響もありますが、ニュータウンには民間企業の社員寮も多く、そこに住む単身の若い人たちが多いのも、この年代層を厚くしているようです。
*「千里ニュータウンの人口 1990年10月1日の国勢調査結果から」・『千里』第339号 平成5年(1993年)2月1日 財団法人大阪府千里センター
いくつかグラフを見てみたいと思います。
記事中でも触れられている通り、この頃になると人口も減少傾向。一方、世帯数には大きな変化がないため、一世帯当たりの人員も減少していくことになります。
定住する人が多くなるのは好ましいことだが、結果として、それが居住者の入れ替わりを抑制することにもつながり、結果として高齢化という好ましくない(?)状態を招いてしまう。これは同じ世代の人が一斉に入居するニュータウンの宿命かもしれません。
上で紹介した平成5年(1993年)の記事では「出生率の低下と高齢化が進んでいます」と書かれていますが、まちびらきから30年が経過した時点では、(当初に比べると高齢化が進んでるとはいえ)全国平均に比べるとまだまだ高齢化率は低い値でした。
その後、千里ニュータウンの高齢化率は、1990年代に全国平均を抜き、その後も上昇が続き、2010年時点では約30%にまで上昇しています。
ニュータウン=建物も古くて、高齢者ばかりのオールドタウン。
近年では、「ニュータウンからオールドタウンへ」というイメージが定着してしまった感もありますが、今、千里ニュータウンではあちこちで建替えが進んでいます。「しばらく見ないうちに、こんなに変わってるんだ」と驚くこともしばしば… こうした建替えによって、千里ニュータウンの人口は再び増加しつつあります。昨年末には、人口が「3年ぶりに9万人台を回復した」という記事も掲載されていました。
大阪府吹田市と豊中市にまたがる千里ニュータウンの10月時点の人口が前年同月比1.0%増の9万266人と、3年ぶりに9万人台を回復したことが分かった。豊中市域はすでに増加していたが、吹田市域も増加に転じた。1975年の約13万人をピークに人口が減少してきた同ニュータウンは老朽化した団地の建て替えが進み、人口が回復してきた。
吹田市・豊中市千里ニュータウン連絡会議がまとめた調査(住民基本台帳ベース)によると、吹田市域の人口は前年比1.3%増の5万8507人と、0.6%増えて3万1759人になった豊中市域よりも増加率が高かった。老朽団地の建て替えが進んだ北大阪急行沿線の豊中市域が人口回復で先行したが、最近は阪急千里線沿線の吹田市域でも建て替えが進んでいた。
人口構成でも0〜14歳の年少人口が吹田市域で増加に転じ、2.4%増の7068人となった。全体に占める比率も12.1%と0.2ポイント増えた
豊中市域の人口は2002年に比べると5%増えている。吹田市域は02年に比べ8%少ない。千里ニュータウン全体も4%下回っている。
*「千里ニュータウン、人口9万人台回復 3年ぶり」・『日本経済新聞』2011年12月2日号
最近まで人が住んでいた(そして同じタイプの団地に今も多くの人が住んでいる)住まいのことを「老朽化した団地」「老朽団地」と書いてしまったよいかどうかは疑問ですが… それはともかく、今、千里ニュータウンは大きく姿を変えようとしています。急激な建替えについては賛否両論あると思いますが、こうした急激な変化を迎えた状態から、まちびらき50年目の千里ニュータウンはスタートします。
最初に紹介した昭和49年(1974年)の記事に、こんなことが書かれていました。
転入・転出の多い仮住いのまちとなるか、定住しやすいまちとなり豊かなコミューニティを育てることができるか、今後の課題として問われる問題であろう。
いかがでしょうか?
千里ニュータウンに長い年月にわたって住み続けてこられた方はたくさんいます。
そして、繰り返しになりますが、千里ニュータウンで高齢化が進んだことは、裏返せば、「定住しやすい」街だったからという側面があります。高齢化というとネガティブなイメージで捉えられることが多いですが、こうした側面を考えると、高齢化もまた違った見方が、ポジティブな見方ができるのではないかと思います。
なぜ、千里ニュータウンでは定住する人が多かったのか?
長い年月にわたって住み続けてこられた方々は、どのようなコミュニティを育ててきたのか?
そして、それは近年の建替えによってどう継承されているのか?
まちびらきを迎えた今、きちんとフォローしておきたいことはたくさんあります。
千里ニュータウンの計画・開発にあたっては、様々な実験的な試みが行われました。例えば、近隣住区論、医療のオープンシステム、団地の囲み型配置など… これらの数々の実験的な試みは、狙い通り、有効に機能したのか? 有効でなかったとすれば、何がその阻害要因となったのか?
郊外の土地を切り開いて、大規模なニュータウンを作るなどという実験は、もう二度と日本ではできないかもしれない。とすれば、これらのことをフォローすることは、(大袈裟かもしれませんが)今しかできないことではないかと思います。
今から半世紀前「夢のニュータウン」として生まれた千里ニュータウン。
街の歴史はたった50年で終わってしまうわけではありませんが、50年というのは節目の年でもあるので、現時点で、良かったことも悪かったこともきちんとフォローして、これからの千里ニュータウンに繋げていくことができればなと思います。
年末の記事に、千里ニュータウンに研究センターを作ることができないかと書きましたが、以上のようなことに少しでも寄与できるようなことができればと考えています。
新年最初の記事ということで、少し長い文章になってしまいました。
本年もよろしくお願いします。
(更新:2016年5月5日)