『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

読書メモ(2011年12月)

今年最後の投稿として、最近読んだ本・雑誌の中で気になった言葉を書いておきたいと思います。

鷲田清一:
生活というのは、ないものを新たにつくることが大事なのではないし、新たにプロデュースすることが必要なわけではないんです。避難所で3ヵ月、確実に生活は根を生やし、毎日毎日そこで暮らしているわけですから、それにコミットし、そしてアドバイスし、そしてサポートするという、そういう体を動かしている建築家。しかし、問いは深いところで受けとめている建築家。そうした建築家が求められている。そういう部分に関しては信頼できる建築家と、はしゃいでいる建築家が、二極分化に見えましたね。
*岩田健太郎 上杉隆 内田樹 藏本一也 鷲田清一『有事対応コミュニケーション力』技術評論社 2011年

川﨑興太:
これからの都市計画を展望するとき、これまでもたびたび主張されてきたように、地域主権の原則のもとに、地域「社会」に権限と財源を移譲し、中央政府では対応できなかったきめ細かな所有空間のデザインを行う制度として精緻化していくという方向性は、決して間違ったものではない。しかしながら、こうした所有空間デザイン制度は、どんなに精緻化しえたとしても、本質的には画一的で無表情な社会空間しか創造しえないものであって、場所の領有環境のデザインを行う平面上に対置するものではない。これは、都市計画が担いきれない対象範囲を含め、住民本位でフレキシブルな空間改善をめざす「まちづくり」についてもほぼそのまま当てはまる。
いま、都市計画に根源的な再構築が求められているとするならば、「場所」という観点から、その存立基盤そのものを見直すことが検討されるべきではないだろうか。冒頭に述べたように、都市計画とは空間概念を前提として実定化された近代の創造物であるから、これまでの私たちの理解では、「『場所』を対象とする都市計画」との表現には明らかな語義矛盾が含まれるのだが、この矛盾にこそ、これから私たちがよって立つべき都市計画、つまり「絶対無の都市計画」の場所が表象されているように思われる。
*川﨑興太「都市計画と空間と場所」・『記念パネルディスカッション 「都市計画」の志向する未来、「都市計画学」の拓く道』都市計画学会 pp.20-23 2011年11月

大塚英志:
震災で「終わりなき日常」が終わったみたいなことがいわれたらしいけど、その「終わりなき日常」の問題も、民俗学的にいってしまえば簡単です。近代とは要するに儀礼がない時代ですよね。この場合、儀礼には二つあって、一つは個人の時間軸を規定する通過儀礼だし、もう一つは共同体の時間を規定する周期儀礼(年中行事)ですよね。同時に通過儀礼は共同体の成員になる手続きです。・・・・・・。「ハレ」を待っているのに「ハレ」は来ない。通過儀礼にせよ、周期儀礼にせよ、その主催者としての「ムラ」は解体しているわけです。見せかけ上に「ムラ」は残っても、共同労働が前提の社会システムじゃないから「儀礼」は意味をなくしている。だから近代社会は共同体が持っていた儀礼を個人的な問題として引き受けざるを得ない。「祭り」がない時代の中でどう生きるのか、通過儀礼がない中でどう生きるのか。個人的に通過儀礼を生きる(例えばそれが「近代小説」であるべきでした)ということの中にかろうじて近代的な倫理みたいなものが、成り立っていく契機があったはずなんだけれど、結局のところ、それは、やらないわけです。・・・・・・
話を戻すと共同体儀礼というのは時間軸をどうやってつくっていくのかということで、近代では時間を歴史に転換していかなければならない。ところがずっと「祭り」をやっているわけです。ネットの上だけじゃなく現実に。・・・・・・
・・・・・・
そういうふうにフォークロアではない、イベントとしての「祭り」がどんどん肥大していく。「祭り」をでっちあげることではなく、「歴史」の構築が必要なのに「歴史」にも「祭り」を求めるから「戦国時代」と「幕末」と「大東亜戦争」しか、「歴史」にない(笑)。「ハレ」を自作自演すればオウムだし、「地震」という「ハレ」の日に皆が高揚する。だから、結局、柳田國男でもいいし、誰でもいいんですが、明治の知識人たちが夢見た近代みたいなもの、柄谷行人との対談★45でもいった、「努力目標としての近代」はまったく成立しなかったり、柳田みたいに成立させようという努力そのものも戦後一貫してずっと欠いているわけです。
*大塚英志 宮台真司『愚民社会』太田出版 2011年

青井哲人:
本特集には多数のアーキビストが登場する。いや、人はみなアーキビストなのではないかと読後に思う。あるいは、人が他者と関係するとき、集団をなすときにそうなるのかもしれない。ところで、都市も村も、自然の資源や地形やその関係性を鋭敏に読み取る能力を持った人々が、そこに欲望と活動を投じることでできており、土地と建物の織物がその決して美しいばかりではない集団の仕組みを反映して実体化している。制度や計画もそうした地べたのメカニズムに届くものでなければ実効性を持たない(・・・・・・)。地べたは強い。簡単には消せない。・・・・・・。集落は動かし難いものだと言いたいのでは必ずしもない。実際、只越も110年前に新しい地べたをつくるために旧地から動いたのだし、昭和の津波では多数の高所移転が行われた。だが、それもまた集団にとって重要な何かを引き継ぐためであったに違いない。人が過去と今を記録するアーキビストたらざるをえない理由は、私たちの社会そのものにあるのではないか。
*青井哲人「アーキビストとしての人間」・『建築雑誌』Vol.126 No.1624 2011年11月号

赤坂憲雄:
三陸のそれぞれの村や町で文化を掘り起こすには、NPOのようなかたちでもいいから若い人たちの雇用が生まれるようにして、文化の後継者を育てていく仕組みをつくる必要があると考えています。若者たちがそこにとどまって生きていくためには、雇用が必要です。この村のために尽くしたい、村を立てなおすために働きたいという若者たちはたくさんいる。彼らが文化の掘り起こしを託されて、お年寄りから地域の歴史や文化を聞いて歩く。また埋もれている石碑を掘り起こすといったことも重ねていくことによって、その若い世代が文化の新しい担い手として育っていくかもしれない。僕はできれば遠野文化研究センターでそれをやりたいと思っています。被災地はそれどころではないから助成金に自ら応募するなんてとてもできない。だから、われわれが仲介するかたちで助成金を取って、それを被災地の文化の掘り起こしと若者たちを育てる資金として使えないかと模索しているところです。・・・・・・。被災地で若者に雇用の場を与えつつ、老人とうまくつないで聞き書きにより地域の歴史を掘り起こして積み重ねていく。そして、僕が提案した震災アーカイブセンターのようなところにそれが集約されていく。つまり、文化を仲立ちとして雇用を生みながら記憶を語り継いでいく仕組みです。被災した市町村は数百ありますから、そこにお金を入れればかなりの雇用になります。ですから、新しい仕組みを無理やりにでもつくって動きだす必要があると感じています。いろいろなものが壊れてしまったから、一から始めなければいけないわけですが、そこで若者たちが働く場面は多いと思います。そのとき老人世代と上手につなぐ仕掛けをつくっていけば、変わっていくチャンスはあると思います。
*赤坂憲雄 聞き手:中谷礼二 山口俊浩 糸長浩司「8,000万人の日本列島」・『建築雑誌』Vol.126 No.1624 2011年11月号

赤坂氏の言葉は震災について、東北について語られたものですが、千里ニュータウンのこととしても受けとめたいと思います。

これまで度々書いてきた通り、来年は千里ニュータウンのまちびらき50周年です。
千里ニュータウンの研究を継続的に行うための、様々な資料を歴史として蓄積するための、そのような資料を情報公開するための、そして、そのような資料を使って人々が関係を築いていくための仕組みとして、千里ニュータウンにセンター(研究センター、アーカイブ・センター)を作ることができないかと考えています。
自分たちの生活する街の資料が残っていて、街の歴史振り返ろうと思えば、その資料を使って振り返ることができる。街の歴史を振り返ることのできる環境が当たり前のように整えられている。
実現するにはまだまだ時間がかかるかもしれませんが、いつか、千里ニュータウンでこのようなことが実現できればと思います。