『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

府営千里佐竹台住宅の管理人:千里ニュータウンの「始まり」を支えた人々

千里ニュータウンは大阪府によって開発されましたが、開発としては土地の造成、歩車分離、団地の住棟配置、公共施設の配置など、いわゆるハードの側面に言及されることが多いのに対して、ソフトの側面に言及されることはあまりないように思います。しかし、大阪府は千里ニュータウン開発にあたってソフトの側面での取り組みも行なっていました。それが、府営住宅の管理人(管理員)の仕組みです。


府営千里佐竹台住宅は、千里ニュータウンのまちびらきの日、1962年(昭和37年)9月15日から入居が始まった団地です。ここに入居した人のほとんどは、それまで団地に住んだことがなかった人々。そのような人々の暮らしを助けるため、府営千里佐竹台住宅には管理人(管理員)と呼ばれる人々が住んでいました。

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(府営千里佐竹台住宅)

山を崩し池を埋め谷をつぶしつつ天災人災いろいろな難問題にぶつかりながらようやく千里丘陵ベットタウンの第一期工事C地区(一〇二九六〇〇〇平方メートル)の府営住宅四十五棟、協会住宅四棟千十戸が完成、その入居者説明会が去る八月三十日午後一時大手前会館で行なわれた。入居期日は府営住宅が九月十五日より月末まで協会住宅が十月一日とそれぞれ発表された。政治、教育、衛生、交通等まだまだ、未解決の多く問題を残していることではあるが、とにかく吹田市の西北端千里山の未開地に近代建築の群団が形成する新市街地の出現を見たことはわれわれ吹田市民も共に惜しみなく祝意を捧げよう。
尚、第一回入居の管理者は次の通りである。

号館    住所     氏名 備考
一~二   二の三〇二  Y (庶務課)*1)
四~五   四の三〇一  M (知事室)
六~八   八の一〇一  H (水産課)
九~一一  一〇の二〇一 T (住宅建設課)
一二~一四 一二の五〇一 H (職業安定課)
一五~二二 一七の一〇一 O (林務課)
二三~二九 二五の一〇一 K (統計課)
三〇~三八 三五の二〇二 S (西成府税)
三九~四一 三九の二〇一 N (計画課)
四二~四三 四二の一〇一 N (枚方土木課)
四四~四五 四四の一〇一 S (耕地課)*2)
※「千里丘陵ニュータウン 9月15日入居開始」・『千里山タイムス』昭和37年9月14日号*3)

府営千里佐竹台住宅の管理人に関しては、「府営住宅750戸には管理人ごとの70~80所帯単位のグループが11」あったとも書かれており(山地英雄, 2002)、45棟の750戸を上の11人の管理人が担当していたことがわかります。

また、新聞記事に「庶務課」、「知事室」、「水産課」などと書かれていることからは、大阪府の様々な部署の職員が管理人として入居していたことがわかります。

千里ニュータウンの府営住宅では、100号階段、200号階段、300号階段のように階段室のまとまりによって住戸番号が付けられており、例えば、100号階段の場合、101号室と102号室が1階に、103号室と104号室が2階に、105号室と106号室が3階・・・・・・ となります。新聞記事に書かれている管理人の部屋番号は「一〇一」「二〇一」「二〇二」「三〇一」「三〇二」「五〇一」であることから、管理人はいずれも1階に入居していたことも読み取れます。


千里ニュータウンまちびらき50年事業の「佐竹台タイムスリップ館」のスタッフを担当されていたNさんは、新聞記事で「三九の二〇一」にお住まいだった計画課の職員の妻でした。

「佐竹台タイムスリップ館」でお会いした時、Nさんから次のような話をお聞きしました。
府営千里佐竹台住宅への入居が始まったのは1962年(昭和37年)9月15日ですが、管理人だったNさん一家4人は、その2日前の、9月13日に入居されました。千里ニュータウン広しと言えども佐竹台への入居が一番先だった、佐竹台でも府営住宅が一番先だった、その中でもみなさんより2日前に入った人間です。Nさんはこのように話されていました。まだ電気もガスも水道も出なかったようで、その2日間は「開拓者以上」の生活をしていたとのこと。
千里ニュータウンに50年間住んで色々な話を知ってるから、「佐竹台タイムスリップ館」でスタッフをしてはと声をかけられ、今回、スタッフを引き受けたということです。

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(「佐竹台タイムスリップ館」のスタッフのNさん)

Nさんは、千里ニュータウンまちびらき50年事業の一貫として、2012年9月15日(土)に千里ニュータウンプラザ内の千里市民センター大ホールにて開催された「語り部トークセッション:千里と共に生きて千里の未来を語る」でも、1962年(昭和37年)に入居した5人の1人としてパネリストに参加されました。

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(「語り部トークセッション:千里と共に生きて千里の未来を語る」)

このトークセッションで、Nさんは次のような話をされました。

「千里に申し込んだんですが当たらなくて。主人が府庁に勤めて、部長から管理をしたらどうだと言われました。私は魅力を感じましたが、主人は嫌がりました。朝から役所に行って、帰ってから管理をするのでは気が休まらないということで。ですから、「私が助けますから」と言いました。そして、言った以上は協力し、私が全面的にみなの前でしゃべりました。」

この話からは、管理人の役割は大阪府職員が1人で担っていたわけでなく、家族も管理人として大きな役割を担っていたことがわかります。
Nさんが府営千里佐竹台住宅に入居した時、上の子どもは3歳、下の子どもはわずか生後2ヶ月10日。Nさんは出産のすぐ後引っ越しし、引っ越し後は管理人の仕事という生活をされていたたため、入居してから1ヶ月余りが経過した10月18日には病気なったとのこと。その時は、千里山の病院の先生が往診してもらって、1週間自宅で点滴を打ったとのこと。「懐かしくて捨てられないんです」とまだお持ちの当時の領収書には、1回の往診料が200円と書かれていました。当時の府営千里佐竹台住宅の毎月の家賃は5,800円。高校を出た新卒の月給は8,000円だったようです。

管理人には、切れた電球を交換したり、大阪府からの情報を伝えたりする役割があったとのこと。
Nさんが担当していたのはB39~41棟の71戸(Nさんの家を含めて72戸)。当時、集会所はなかったため、大阪府からの情報を伝えるときはみなに住棟の前に集まってもらい、自分は「石炭箱の上にのって」説明していたということです。

「その頃、集会所もありません。府庁からの伝達は、全部、管理員が伝えました。通達する時は、今みたいにはいきませんので、集まってくださいと「階段の役人さん」に言ったら、みな集まっていただけた。そして、石炭箱の上にのって色々説明するんです。」

このように、管理人は大きな役割を担っていました。その後、府営千里佐竹台住宅では管理人を中心として自治会(単位自治会)が設立されることになりました。

「府営住宅には12ブロックあるんですが、みんな管理人が主(しゅ)になって12自治会ができたんです*4)。これが佐竹台の始まりだと思ってます。今だにその繋がりはあるんですよ、ほんとに親しかったんですね、不思議なくらい。」

千里ニュータウンの「始まり」を支えた人々貴重な歴史です。


■注

  • 1)新聞記事では三号館が書かれていないが、これは新聞記事の誤り(抜け落ち)だと思われる。そのように考える理由はこちらの記事を参照。
  • 2)記事には実名が記載されているが、ここでは性の頭文字のアルファベットのみ記載している。
  • 3)この記事では、「千里丘陵ニュータウン」「千里丘陵ベットタウン」という表記が用いられている。このことから、この新聞記事が刊行された1962年時点では「千里ニュータウン」という表現がまだ定着していなかった可能性を考えることができる。
  • 4)上で紹介した新聞記事では11のグループしか掲載されていないが、その後、B46〜48棟が完成したため、最終的に府営千里佐竹台住宅の単位自治会は12となった。

■参考文献

(更新:2022年4月18日)