『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

佐竹台タイムスリップ館:千里ニュータウンの団地の歴史を継承すること

2012年、千里ニュータウンまちびらき50年事業の1つとして「佐竹台タイムスリップ館」が開かれました。「佐竹台タイムスリップ館」が開かれているのは千里ニュータウンで最初に入居が始まった府営千里佐竹台住宅(入居開始は1962年9月15日)のB39棟202号室。この住棟は建て替えが行われることが決まっており、既に退去された方もいます。「佐竹台タイムスリップ館」は既に入居者が退去された住戸を一時的に借りて、実際に使われていた家具、家電製品、玩具など展示し、実際に府営千里佐竹台住宅にお住まいだった方から当時の暮らしを聞くことができるという場所です。

■佐竹台タイムスリップ館の概要

  • 開催日:2012年9月16日(日)、23日(日)、30日(日)、10月8日(月・祝)、14日(日)、21日(日)、28日(日)、11月4日(日)、18日(日)、25日(日)
  • 開館時間:13時~16時
  • 場所:府営千里佐竹台住宅B39棟 202号室

府営千里佐竹台住宅B39棟

佐竹台タイムスリップ館が開かれているのはB39棟の202号室。202号室と聞くと2階だと思われる方がいるかもしれませんが、B39棟の202号室は1階にあります。これは、千里ニュータウンの府営住宅では皆ではなく、階段室のまとまりで住戸番号が付けられていることが理由です。B39棟には100号、200号の2つの階段室があり、200号の階段室には次の8戸があります。こうした住戸番号の付け方は、階段室がひとまとまりであるという意図の現れだと思われます。

  • 4階:207号室 208号室
  • 3階:205号室 206号室
  • 2階:203号室 204号室
  • 1階:201号室 202号室
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(佐竹台タイムスリップ館はB39棟の1階に開かれている)

府営千里佐竹台住宅B39棟は、道路を挟んでB40棟とペアにして配置されています。B39棟とB40棟の写真を比べて何かお気づきになられるでしょうか。

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(府営千里佐竹台住宅B39棟)

(府営千里佐竹台住宅B40棟)

北側にあるB39棟は住棟の南側から階段室にアプローチするのに対し(「南入り」の住棟)、南側にあるB40棟では住棟の北側から階段室にアプローチするようになっています(「北入り」の住棟)。通常、団地では住戸への日照を考慮して、南側に配置されます。B39棟のように南側に階段室を配置すると、南側に配置できる部屋が少なくなり日照という面では不利になりますが、府営千里佐竹台住宅ではではあえて「北入り」と「南入り」の住棟をペアにした配置(NSペアによる配置)が採用され、隣接する住棟の住民が同じ道路から階段室のアクセスできるようにし、接触する機会を生み出すことが考えられています。
団地というと板状の住棟が均一に建ち並んでいるイメージをお持ちの方も多いと思いますが、住棟配置にこのような工夫がされていることは見落としてはなりません。

佐竹台タイムスリップ館

「佐竹台タイムスリップ館」には非常に多くの方が来館されているようで、多い時は1日に240人、普段でも1日150人くらいは来館されているとのこと。この日も小さな子どもを連れた方から高齢の方までたくさんの方が来られていました。階段室の前で記念撮影をしたり、室内で熱心にメモをとっている方も見かけました。

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(佐竹台タイムスリップ館)

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(佐竹台タイムスリップ館の入口(玄関))

展示内容

館内では5人のスタッフが来館者への対応をされていました。スタッフの中の1人は、少し前まで向かいの住戸(B39棟201号室)にお住まいだったとのこと。「佐竹台タイムスリップ館」の話があったのは退去した後だったため、入居当時の家具をしててしまった。退去前に話を聞いていたら、もっと色々な家具があったのにと残念がっておられました。それでも小物は残っていたとのこと。このように「佐竹台タイムスリップ館」では住民が実際に使っていた家電製品、玩具、洋服、調理器具などを持ち寄って展示が構成されています。

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(蚊帳、湯たんぽ)

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(ミシン、洋服)

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(将棋、囲碁、百人一首、花札、トランプ)

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(人形、積み木、雛人形、算盤、カメラ)

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(多数の調理器具)

バスオールの置き場所

館内には多くの物が展示されていますが、いつ頃まで使われていた物なのかがわからない物もありました。そうした物のことも含めて、「佐竹台タイムスリップ館」ではスタッフから貴重な話を聞くことができます。
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(案内する住民スタッフ)

例えば、スタッフから次のような話をお聞きしました。
府営千里佐竹台住宅のB39棟は平成元年(1989年)に増築され、各住戸に風呂場が設置されました。逆に言えば、1962年の入居から1989年までの27年間は住戸内に風呂場がなかったということです。そのため、近隣センターには銭湯がありましたが、住戸にバスオール(家庭用ユニットバス)を置いていた人も多かったということです。実際、この日お会いしたスタッフの1人も、バスオールを使っておられました。

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(写真左の飛び出た部分が増築部分)

それでは、バスオールはどこに置かれていたのか?
府営千里佐竹台住宅B39棟の場合、隣接する2戸が1つのベランダの排水口を共用していたため、隣接する2戸が同時にバスオールの水を流すと排水口が溢れるという問題が生じたということです。
そのため、隣の住戸の人と仲が良かったらベランダに設置できるし、逆に、部屋の中で使って欲しいと言われることもあった。バスオールがきっかけで隣の住戸の人と仲良くなることもあるし、喧嘩になることもあります、という話でした。
この日、お話を伺った1人のスタッフのまち開き(1962年)から10年以上経過してから入居したとのこと。その時点では、既に隣の住戸の人が既にベランダでバスオールを使っていたため、自分達は家の中でバスオールを使って欲しいと言われた。後から入居したこともあり、室内の洗濯機置き場にバスオールを置くことにしたということです。

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(隣接する2戸が1つのベランダの排水口を共用する)

(洗濯機置き場)

ニュータウンでの内職

「佐竹台タイムスリップ館」の室内に、「千里ニュータウン 5世帯に1世帯が内職:希望者は全世帯の一割以上 過半数が収入不足補う」という新聞記事が掲示されていました。1962(昭和37)年のまち開きから8年後、1970(昭和45)年の記事です。

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(壁に展示された昔の新聞記事)

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(展示された昔の新聞記事)

千里ニュータウン 5世帯に1世帯が内職
希望者は全世帯の一割以上 過半数が収入不足補う

五世帯に一世帯——千里ニュータウンの内職家庭は意外に多く、大阪府下一般世帯の内職世帯をはるかに上回ることがわかりました。これは大阪府立職業センターが、内職行政の適正化のために行なった「千里ニュータウンにおける内職就業調査」で明らかになったもので、内職就業者の実態や、内職希望者(失業者)が全体の一割以上あることもわかりました。一般企業が求人難で困っている反面、家内労働力が十分活用されているということで、同所ではこれを機会に内職求人の大量申し込みを各事業主に呼びかけています。

こんどの調査ではニュータウン全域を対象に、三千百七十八世帯を無作為抽出し、戸別訪問をしたもので、内職就業世帯は一九・一%、さらに内職希望世帯は一一%あり、一昨年実施した府下一般世帯調査の就業世帯一三・九%より五・二%も高く、一〇軒に三軒が内職しているか、またはしたいと望んでいる家庭ということになります。
世代の若い家庭が多い団地での内職は、レジャー内職とともに、家計補充のためがかなりあるようです。別表の通り「経常収入の不足」をはじめ、収入が足りないために内職をしている人は、過半数を占め、「余暇があるから」している人は三五・八%。内職希望者は「暇があるから」はそれよりやや多く三九・二%あるが、やはり「小遣いにあてる」三〇・五%、「特別収支にあてる」九・二%「経常収入が足りない」一五%と収入が足りないことを理由にしている人の方が多くなっています。
年齢別に見ると、就業者は三〇−三九歳が全体の六三・四%、平均年齢は三三・二歳で希望者は二五歳−三四歳が六九・七%あり、平均年齢三二・二歳となっており、ニュータウンの平均世代が、内職就業者、希望者の平均年齢ともいえます。男女別では、やはり女性がほとんどで、いつの時代も内職のイメージは主婦に変りありません。また、生活が安定してくるためか、五〇歳以上の就業者、希望者は少なく、それぞれ全体の五%、二・六%しかありません。

約七割が繊維関係
職種別に就業者の割合を見てみると、洋裁二二・五%、刺しゅう一九・五%、編物一三・九%、電気機械器具加工九・八%、下着、身の回り品加工六・五%、化学製品加工四・七%、和裁四・五%となっており、全体の六九・六%が繊維製品加工に関係があり、洋裁や手芸が半数以上を占めています。最近は電気機械器具の加工も増えてきています。
電気器具の普及で余暇の出来た主婦が、増産、増産の電気器具の加工に従事するという面白い現象と見られます。
「内職は安い」の相場は相変わらずで、一日平均四、五時間、一ヶ月一六・四日従事し、平均月間工賃では七、二〇〇円ですが、工賃二、〇〇〇円から六、〇〇〇までの内職者四七・五%と半数近くもあり、家計の足しにもならない工賃で時間を費やしている人が多いのが現状です。時間工賃九八円で、一昨年の平均九〇・三円より多少高くとも、近ごろの激しい物価高騰にはとても追いつける額ではありません。また、就業者のうち八〇・七%が未経験者ということも低賃金に甘んじなければならない理由のひとつでしょう。にもかかわらず、今後も続けたい人は七八・五%もあります。
内職による家庭環境、健康管理への影響がどうかという質問に対して「良い」が四九・三%に対し、「悪いが仕方ない」が四四・七%もあり、何らかのかたちで家庭にしわ寄せがいっても仕方がなく、内職を続けたい家庭が多いことが全体を通して感じられます。
※「千里ニュータウン 5世帯に1世帯が内職」・『ニュータウン」昭和45年03月1日

千里ニュータウンはベッドタウンであるため仕事の場所がなく、男性は都心に通勤するサラリーマンで、女性は専業主婦だったというイメージで捉えられ方がされることがあります。しかし、「一〇軒に三軒が内職しているか、またはしたいと望んでいる家庭」という割合は決して小さくはありません。住宅以外に仕事の場所がなかったという理由はありますが、当時の住宅には、「電気器具の普及で余暇の出来た主婦が、増産、増産の電気器具の加工に従事する」というように生産の役割を担う場所だたという側面があったことがわかります。

食寝分離の間取りにおける食事の場所

府営千里佐竹台住宅B39棟の202号室は、増築前は次のような間取りになっていました。

(府営千里佐竹台住宅B39棟の202号室の増築前の間取り)

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(6畳の和室)

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(6畳の和室から4.5畳の和室(左)と洋間(右)を見る)

この間取りの背景には「食寝分離」(しょくしんぶんり)、つまり、近代的な住宅においては「食」べるための部屋と「寝」るための部屋が分離されているという考え方があります。第二次大戦後、たとえ面積は小さくとも、近代的な暮らしができる住宅を大量に供給するという課題との格闘を通して生み出された間取りが、この間取りに現れています。
このような間取りの住戸では、洋間で食事をすることが考えられていたわけですが、実際に「食寝分離」の間取りでどのような生活をされていたのかをスタッフにお聞きしました。

まちびらきの年(1962年)から住んでいるという方は、夫婦と娘2人の4人暮らしでした。どこで食事をされていたのかを聞いたところ、6畳の和室で「お膳」(※「お膳」と言われたのはちゃぶ台のこと)を出して食べていたとのこと。洋間にはトイレがあるため、この方の旦那さんを含めて、最初はトイレの前で食事をするのを嫌がった人は多かったということでした。ただし、お好み焼きやたこ焼きは、洋間に置いたガスコンロの付いたテーブルで焼いて、そこで食べておられたということです。
夜になるとお膳を片付け、夫婦は6畳の和室で、2人の娘は4.5畳の和室で寝ていたようです。今のようにベッドもないため、晩になったらお膳を片付け、押入から布団を出し、朝になったら布団を片付け、お膳を出し・・・ という生活だったようですが、そんなんは当たり前やと思っていたのこと。

もう1人、まちびらきの年(1962年)から10年以上経ってから入居された方は、夫婦、子ども4人、そして母の7人暮らし。母のために、洋間に扉を取り付けて部屋を作り、そこにベッドを置いたとのこと。食事は、周りでは洋間でテーブルで食べてる人も、「座敷」(※和室)で食べてる人もいたけれど、この方は「座敷」で食事をされていたということです。キッチンの周りには冷蔵庫や水屋など色んな物が多かったため、食事をするスペースがなかったという理由もあったようです。「間取りは同じなので、どういうふうに使うかは知恵出して、自分で考えて」という言葉が印象に残っています。


「佐竹台タイムスリップ館」は、千里ニュータウンで最初にに入居が始まった府営千里佐竹台住宅の住戸内に入ることができる、当時使われていた家具や物を見ることができる、そして、実際にこの団地にお住まいだった方から話を聞くことができるという意味で非常に貴重な場所です。

また、建築計画学に関わる者としては、「食寝分離」という思想に基づいて作られた住戸でも、当然かもしれませんが計画通りに「食寝分離」の暮らしが行われていたわけでない。スタッフの1人が「間取りは同じなので、どういうふうに使うかは知恵出して、自分で考えて」と話されていたように、それぞれ工夫しながら団地を住みこなしてこられたということです。

政治学者の原武史は『団地の空間政治学』という書籍に次のように記しています。

団地で生まれた子供たちが成長して出てゆき、残された親である住民が高齢化するとともに、団地が輝いていた時代は忘却されつつある。団地の歴史をずっと見つめてきたはずの住民自身ですら、そうした時代があったことを語ろうとしなくなっている。だが、戦争体験の風化に対する危機感がしばしば叫ばれるのに対して、団地体験の風化という言葉は聞いたことがない。
※原武史『団地の空間政治学』NHKブックス, 2012年

府営千里佐竹台住宅は建て替えが行われます。「佐竹台タイムスリップ館」でスタッフをされた方々もこれからどんどん歳を重ねていかれます。歴史が風化することには抗えないかもしれないとしても、少しでも千里ニュータウンの団地の暮らしの歴史を残しておきたい。このような思いから、この記事を書きました。

(更新:2022年4月18日)