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建築における計画者と利用者:計画の失敗、あるいは、使いこなし

建築の計画においてしばしば議論されるのは、「利用者は計画者の想定通りにその建物を利用しているか?」ということ、さらに「その計画は適切だったか?」ということ。
収納が少なかったため、DIYにより利用者自身が棚を取り付けることがあります。ベランダに屋根をかけて屋内化することもあります。これらは利用者が建築に対して手を加えて、使いやすいようにする行為であり、こうした建築に対する主体的な働きかけは好ましいと言えます。それではこれらの行為は、収納が必要、屋内のベランダが必要というニーズを十分に汲み取れなかった計画の失敗と言えるのか。そして、もし計画の失敗ということになれば、計画者はその失敗の責任をどのようなかたちで取り得るのか。既にその建築での暮らしが始まっている以上、もう一度計画をやり直して、建物を建て直すのは容易ではありません。
逆に次のような例を考えることもできます。利用者が計画者の想定した通りに利用して、建築に全く手を加えずに利用し続けている。このことは計画の完全性を意味するのか、それとも、利用者は受動的に利用させられているという自体を意味するのか。

これは、近年盛んなリノベーションにも当てはまります。学校の空き教室を企業のオフィスにする、空き家をカフェにする、百貨店を市役所にするなど様々なかたちのリノベーションが行われています。
学校の例をあげると、この学校が当初計画される際には、将来そこが企業のオフィスになることは考えられていなかったと思われます。そう考えると、計画者にとって全くの想定外の出来事が起きたと言えますが、それではこれは(学校として計画した建築が学校として使われなくなったという)計画の失敗ということになるのか。
ただし、この学校も開校した頃は学校としての役割を果たしていたが、次第に子どもが減少し廃校を余儀なくされた。このように計画からかなりの時間が経過した時の出来事を、当初の計画の失敗に帰するのはて酷かもしれません。そうすると、計画が有効なのは何年くらいなのかという、計画の有効期限が議論になるかもしれません。

建築を計画者、利用者それぞれの立場から考えれば、計画者の想定通りに利用していないことが必ずしも悪いと言い切れないことになります。

このような考えから、次のようなことがずっと問いとしてありました。

  • Q:利用者による空間に手を加える行為やリノベーションが見られることは、計画の失敗を意味するのか?
  • Q:建築計画の有効期限はあるのか?

これらの問いを考えるために、最近読んだ大月敏雄氏の『町を住みこなす:超高齢社会の居場所づくり』(岩波新書 2017年)がヒントを与えてくれたように思います。大月氏は20世紀後半の建築計画学は「「時間」への着目」が見失われ、「長期のフィードバックの観点がなかった」と指摘しています。

私の専門は建築計画学である。世界の建築学の中で、これに特化して研究している人は少ない。戦中戦後の日本で、住宅をはじめとして、学校、病院、事務所、図書館、博物館など、社会にとって必要な諸建築物が決定的に不足していた時代に、独自に発展をとげた学問領域である。全国でそれらを一斉に設計する際には、それぞれの建築種別(これをビルディング・タイプという) 特有の、設計上留意しなければならない要件をあぶり出し、基準やガイドラインや本などにして、社会で共有してもらうための学問として、特に二〇世紀後半の時代に重宝されてきた。
・・・・・・
二〇世紀後半は各種の建物が圧倒的に不足していた時代だったので、これらをどんどん建て、どんどん設計しなければならなかった。このため設計の現場からは常に新しいアイデアの検証が求められ、建物が建ったらすぐに調査せねばならず、そのあわただしい循環の中で、設計へのフィードバックがなされてきた。こうした中で見失われてきたのが、「時間」への着目である。短時間のフィードバックでは見えてこない、長期のフィードバックの観点がなかったのである。
*大月敏雄『町を住みこなす:超高齢社会の居場所づくり』岩波新書 2017年

ここで指摘されているように、「長期のフィードバックの観点」を建築の計画に導入するとどうなるのか。それは、計画者と利用者という立場が消えるという状況を生み出すのかもしれません。

上で紹介した建築への働きかけやリノベーションの例においては、次の2つを暗黙の前提としていました。1つは、計画者は完成までに建築に関わる立場、利用者は完成後の建築に関わる立場であるということ。

もう1つは、計画者にとって計画した建築は唯一ではないが、利用者にとってその建築は唯一だということ。言い換えれば、計画者にとってある建築の計画の成否を議論することは、そこからフィードバックを得て、次なる計画に活かすために重要なこと。けれども、利用者にとっては、たとえその計画が失敗だとしても、その建築に付き合っていかざるを得ない。その時に建築への働きかけやリノベーションという行為が生まれてくる。

  • 「計画者A」が計画した「建築A」を「利用者A」が利用する。
    →「計画者A」にとって「建築A」の計画の成否に関するフィードバックは次の「建築B」を計画する上で有用。一方、「利用者A」は計画の成否に関わらず「建築A」と付き合わざるを得ない。
  • 「計画者A」が計画した「建築B」を「利用者B」が利用する。
    →「計画者A」にとって「建築B」の計画の成否に関するフィードバックは次の「建築C」を計画する上で有用。一方、「利用者B」は計画の成否に関わらず「建築B」と付き合わざるを得ない。
  • 「計画者A」が計画した「建築B」を「利用者B」が利用する。
    ・・・・・・

こう考えれば、計画者にとっての計画の成功/失敗を語る次元と、利用者にとっての成功/失敗を語る次元とは、全く違う話だということになります。

ここに、「長期のフィードバックの観点」と導入すると、どのような状況が起こり得るか。計画者も完成後の建築に対して、長期的に関われる可能性が出てくるのではないか。

  • 「計画者A」が計画した「建築A」を「利用者A」が利用する。
    →時間の経過につれ使いにくいところが出てきた。「利用者A」は何とか使いこなそうとするが、「計画者A」もそれに対して何らかの提案をする。さらに時間が経過するにつれて使いにくいところが出てきた。・・・・・・

このように、利用者による使いにくいという表明が計画者を動かすのかもしれません。計画者は当初は自身が計画した建築の利用のされ方に影響を受け続けるという意味で、あたかも利用者のような存在になっている。
そうすると、計画者と利用者(広く専門家と非専門家と言ってもよいかもしれません)を二項対立的に捉えようとすること自体が、「時間」への着目」を見失った結果ではないのか。この時、上にあげた2つの問いは意味をなさなくなるような気がします。

こうした議論に対して、計画者がある建築に関わり続ける場合、その代価はどのように支払われるのか、利用者が継続的に負担し続けるのかという指摘がありそうです。これに対する答えは今のところ持ち合わせていませんが、建築に継続的に関わり続けることが価値を生み出す仕組みが必要なのかもしれません。