『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

新たな人間関係のモデルを提示する:まちの居場所から考える

「まちの居場所」(コミュニティ・カフェ、地域の茶の間、サロンなど)を運営するための課題として、運営資金をどう確保するか、空間をどう確保するか、スタッフをどう確保するかなどがあげられますが、(もしかすると最も重要なのは)どのような人間関係のモデルを想定するか、ということではないかと考えることがあります。

先日もある方々と意見交換をして、改めてそのことを思いました。
「まちの居場所」は地域の人々がある密度を持って集まる場所。地域の中には人間関係の様々なグループがあるのは当然ですし、互いに仲の良い人/仲が悪い人、性格の合う人、合わない人がいるのも当然。常連だけが集まるのではなく、色々な人々が集まるようになればなるほど、様々な関係にある人々が関わったり、訪れるようになる。
そうであるにも関わらず、コミュニティ、仲間、絆、つながりといった言葉で「まちの居場所」を捉えてしまうと、そこではみなが仲良くやっているようなイメージを持ってしまう。

「まちの居場所」が地域における人間関係を解決する可能性もありますが、同時に、地域の人間関係が「まちの居場所」に持ち込まれる可能性もある。
この時に重要なのは、みなで仲良くするのではなく、仲良くなくても互いに不快感を与えずに気持ちよく過ごすための工夫。そのためには、地域における人間関係の新たなモデルが必要なのかもしれません。濃密な(場合によっては閉鎖的な)関係でもなく、赤の他人としての無関係でもない関係、コミュニティ、仲間、絆、つながりといった出来合いの言葉を使わずに、どうやって実現していけるのか。
こういう観点から今まで訪れた場所のことを振り返ってみると、人間関係の新たなモデルが提示されていることに思い当たります。
そのモデルは「まちの居場所」という場所全体として提示されているため、言語だけでは十分に把握できないものですが(恐らく場所とセットでしか成立し得ない人間関係)、意図的に言語化されている方々もいらっしゃいました。個々の方々のお名前をご紹介するのは控えたいと思いますが、例えば、次のような表現です。

  • 大勢の中で、何もしなくても、一人でいても孤独感を味わうことがない
  • 誰からも見張られ感がなくゆっくりしていられるけど、困った時には傍に居てくれる
  • 人も、犬も、風のように来れる
  • お手伝いしてる方もボランティアだけど、来る方もボランティア
  • 矩を越えない距離感を大切にする
  • 疑似家族ではなく、疑似親族

少し前に「他者を親密さの次元だけで評価しないことを学ぶ場所」ということを書いたことがありますが、「まちの居場所」ではこうした関係を身をもって学ぶことのできる場所であり、このような関係の価値を身につけた人々がたくさん暮らす地域が、住みやすい地域だと言ってよいのかもしれません。