『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

フォーマルなケア/インフォーマルなケア

少し前になりますが、フォーマルなケア、インフォーマルなケアをテーマにする会議に参加する機会がありました。フォーマルなケアとは制度の枠組みの中で行われるケア(介護)、それに対して、インフォーマルなケアとは制度の枠組みには収まらないもの。会議では次のようなテーマが設定されていました。

  • フォーマルなケア:施設内の介護、介護者のトレーニング、介護者へのサポート
  • インフォーマルなケア:コミュニティに根ざしたケア、高齢者の地域参加

それぞれのテーマはいずれも興味深く、多くのことを教えられた会議でしたが、会議後に感じたのは、一見フォーマルだとされているものの中にもインフォーマルな側面があり、逆に、一見インフォーマルだとされるものの中にもフォーマルな側面があることは見逃してはいけないことではないかということ。
例えば、次のようなことです。

  • 施設内では介護する人/介護を受ける人という明確な役割が定められていますが、そうであっても個人同士の顔の見える関係において、役割から外れたインフォーマルなものが存在する余地はないだろうか?
  • 住民主体で行われているコミュニティに根ざしたケアであっても、もしもそれが行政からの補助金を受けて行われていれば、フォーマルなものの性質がそこに入り込んでくる余地はないだろうか?

高齢者、高齢化、介護、ケアといった領域に関する大きな課題かもしれませんが、インフォーマルがフォーマルの反意語として表現されている限り、「インフォーマルなものは、フォーマルなものの残余」として認識されてしまう。それゆえ、制度が整えられるにつれて、その残余が徐々にフォーマルなものに浸食されてしまうのではないか? インフォーマルなものを(制度を整えることによって)スケールアップさせたいという善意が、結果として残余を浸食し、当初インフォーマルなものが有していたはずの価値を毀損してしまうのではないか? この部分は注意すべき必要があると思います。

近年同時多発的に生まれている「まちの居場所」(コミュニティ・カフェ、地域の茶の間、まちの縁側など)は、まさにこの部分を乗り越えることの必要性を問題提起しているのではないかと思いました。今求められているのは、インフォーマルという言葉で表現されているものの価値を、フォーマルなものの反意語としてではなく、肯定形で表現することではないか。
会議に参加して以上のようなことを感じました。