『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

対象を無目的に見ることから始まる研究

哲学者・批評家の東浩紀氏は、原発事故のあったチェルノブイリへの観光ツアーを開催されています。事故現場や被災地域の訪問に加え、事故処理作業員との対話、旅行前後のセミナーなど、「常識的には観光ではなく視察や研修と呼んだほうが適切」な内容であるにも関わらず、「観光という位置づけ」とされている。
東浩紀氏は「チェルノブイリを「観光客の目線」で捉えることが決定的に重要だと考えている」とし、その理由を次のように述べています。

「チェルノブイリについてのルポや記事は、福島の事故以降、その数は急激に増えてもいる。しかしその多くは、上記のステレオタイプを脱していない。なぜなら、たいていの取材は、目的があって現地を訪問するからである。目的があると、しばしばその目的に合致した現実しか見えなくなる。これはジャーナリズム一般の弱点だが、原発関連報道においてはとくに強く現れている。
だからぼくは、このツアーの参加者には、あえて無目的になってもらいたいとお願いしている。それが「観光客の目線」の意味である。原発の是非や観光地化の是非を横に置いて、まずはチェルノブイリの複雑な現実をそのまま受け止めてもらいたいのだ。
・・・・・・
観光客は、目的がないからこそ、矛盾した現実を矛盾のまま受け止めることができる。ぼくはその可能性に賭けている。」
*東浩紀『ゆるく考える』河出書房新社 2019年

目的が明確になるほど、「その目的に合致した現実しか見えなくなる」。

これは研究にもあてはまるのかもしれません。
研究とは何らかの目的を持って行われる行為ですが、そこでは社会問題を解決するという目的が掲げられることが多い。例えば、居場所(まちの居場所)に対する調査では、介護予防の問題や、地域からの孤立の問題などを解決するための知見を得ることが目的として掲げられる。そして、現場の調査を通して居場所には介護予防の機能があったり、孤立解消の機能があったりすることが見出される。
しかし、目的が明確になるほど「その目的に合致した現実しか見えなくなる」のだとすれば、これはそもそも、居場所に介護予防や孤立解消の機能があることを見出すことを目的としているからではないか。そして、このプロセスが繰り返されることで、居場所には介護予防や孤立解消の機能があるという仮説がどんどん強化されていくのではないか。

少し前に寄稿した「居場所と施設:非施設としての居場所の可能性」という文章では、居場所と施設とを次のように比較しました。

  • 居場所では、機能は生じてくる要求への対応として事後的に備わってくる。
  • 施設では、機能は実現すべきものとしてあらかじめ設定される。

そして、居場所において事後的に備わる機能の一部を抽出し、それを実現すべきものとしてあらかじめ設定していくプロセス、つまり、機能を先行させていくことが制度化ではないかという仮説を提示しました。

居場所の現場では様々なことが事後的に備わっており、介護予防や孤立解消の機能はその中の1つに過ぎない。そうであるにも関わらず、あらかじめ介護予防や孤立解消についての知見を得るという明確な目的を掲げることによって、様々なことが見えなくなってしまう。結果として、この研究自体が制度化のプロセスに寄与している可能性があります。

だとすれば、無目的なものとしての「観光客の目線」として、対象を見ることから始まる研究には大きな役割があるということになります。


もちろん、これに対しては次のような批判があり得ると思われます。

1つは、そもそも研究の目的とは、最初は曖昧で、次第に明確になってくるもの。従って、最初から明確な目的を掲げた研究などというものを議論することに意味はないのではないかという批判。

そうすると、研究の目的が明確か否かではなく、最初は曖昧だった目的が明確になっていくプロセスをこそ大切にすべきなのかもしれません。流行やキーワードに左右されず、先入観を排して調査対象の現状を見ること。そこで見出したものが、流行やキーワードから外れていたとすれば、それが新たな研究の萌芽と言えるのかもしれません。

もう1つは、居場所の現場にいる人々は、自分たちの活動の社会的な意義を本当には理解していないかもしれない。たとえ居場所の現場では介護予防や孤立解消の機能が重視されていなくても、これらは現在社会において重要なことであることに違いない。研究者の役割とは、俯瞰的に現場を見ることで、その意義を社会の中に位置付けること、現場と社会とを架橋するのことではないか。だから、居場所の現場では様々なことが生じているとしても、あらかじめ介護予防や孤立解消についての知見を得るという明確な目的を掲げることは当然あり得るという批判。

これに対して、現時点では的確な回答をすることはできませんが、居場所とは既存の制度・施設の枠組みでは上手く対応できない課題に直面した人々の、切実な要求がきっかけとなって生まれたという経緯は忘れてはならないと思います。研究者は、現場の人々には見えていないものを見出すのが研究者の役割だとしても、居場所が開かれた背景にはこのような事情があるとすれば、やはり現場において生まれている様々なものをきちんと見ていく作業は欠かせないと考えています。