『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

第二次世界大戦中の大船渡市末崎町

半年ほど前のことになりますが、「居場所ハウス」の方から大西英雄著『宜候の海:ワレ玉砕ノ島サイパンカラ生還ス』(イー・ピックス出版 2006年)という本を貸していただきました。

著者の大西英雄氏は、気仙郡末崎村字小細浦(現在の大船渡市末崎町字小細浦)の出身。末崎尋常小学校(1934年卒業)、末崎尋常高等小学校(1936年卒業)、末崎青年学校研究科(1942年卒業)を卒業された後、出征。サイパンの戦いから生還された方です。

  • 大正11年2月1日 出生、気仙郡末崎村字小細浦
  • 昭和9年3月25日 末崎尋常小学校卒業
  • 昭和11年3月25日 末崎尋常高等小学校卒業
  • 昭和17年3月25日 末崎青年学校研究科卒業
  • 昭和18年1月10日 横須賀第2海兵団に入団
  • 昭和21年1月 サイパン島拘留より帰国

※大西英雄『宜候の海:ワレ玉砕ノ島サイパンカラ生還ス』イー・ピックス出版 2006年

(末崎町字小細浦の様子:2017年8月撮影)

タイトルにある「宜候」(ヨーソロー)は「航海用語で船を直進させることを意味する操舵号令」で「転舵(または転舵命令)のあと、今向いている方向でよしというときに発することが多い」(※Wikipedia「ようそろ」のページより)とされています。

この書籍からはサイパンの戦いの様子が伺えると同時に、第二次世界大戦中の大船渡の様子も伺うことができます。
例えば次のように、出征兵士のお守りにする千人針を作るために「街角にたたずみ行き交う人々に千人針への協力を呼びかける女性の姿」が見られたこと、多くの人が駅まで出征兵士を見送りに行ったことなどが書かれています。

「旅立ちのとき、中国では柳の枝を手折って渡し前途を祝すというが、私に贈られたのは、村の顔役の景気だけはやたらといい祝辞と千人針だった。
千人針というのは、腹巻用の布に、たくさんの女性たちが、おびただしい糸を通して結んだものだ。これを、出征兵士に持たせると武運長久が叶うといわれ、ほとんどの兵士はお守りがわりに腰に巻いていた。この頃、大船渡の町でも、街角にたたずみ行き交う人々に千人針への協力を呼びかける女性の姿をよく見かけたものだ。
やがて、私を乗せた列車がプラットホームをするすると滑り出した。期せずして万歳の波が起こった。日頃のうらさびしさがうそのような人並みである。汽車の窓に顔を寄せて握りあった互いの手がふりほどかれると、家族や近所の人たちの顔が、まるで走馬燈のように流れて遠のいて行った。」
※大西英雄『宜候の海:ワレ玉砕ノ島サイパンカラ生還ス』イー・ピックス出版 2006年

出征兵士を駅まで見送りに行ったことは、「居場所ハウス」にこられている80代の何人かの方からも、子どもだった自分たちも、手に持った旗を振り、歌を歌いながら、出兵する兵士を細浦駅まで見送ったという話を聞いたことがあります
実際にこのような経験をされた方から話を伺うと、ほんの少し前まで日本は戦争をしていたことに改めて気づかされます。

なお、著者の大西英雄氏が出征された1942〜43年頃の末崎町の人口は4,000人弱でした。その後、人口は増加し昭和の後半、1985年には6,077人にまで増加。その後、人口は減少に転じ、2015年には4,103人となっています。

当時とは年齢構成が全く異なりますが、末崎町の現在の人口は、第二次世界大戦中と同じくらいということになります。