『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

居合わせることの難しさと要求をずらすこと(アフターコロナにおいて場所を考える-16)

臨床心理学者・東畑開人氏による『居るのはつらいよ:ケアとセラピーについての覚書』(以下、東畑開人(2019)と表記)を読みました。精神科デイケア、その中でも「居場所型デイケア」における「居場所型デイケア」における「いる」ことの難しさ、「する」ことの前提には「いる」があるにも関わらず、「いる」ことの価値を説明することの難しさという点は、コミュニティカフェ、地域の茶の間、まちの縁側など地域に開かれた場所(以下、居場所と表記)について多くを考えるきっかけをいただきました。
ここで居場所と呼んでいる場所は、カフェが運営の基本になっており、いつ来てもよいし、いつ帰ってもよい。時間に拘束されないため、「いる」のがつらくなれば帰宅するという選択肢もある。この意味で、「居場所型デイケア」と同じだとは言えません。けれど、これまで居場所に関わっている方に話を伺ったり、自らも居場所の運営に携わったりすることを通して、体操、各種教室など何らかの「する」ことを用意するのに比べると、「いる」ことを実現するのは難しいということはよくわかります。

この本を読み、改めて居場所における「いる」ことについて考えていました。


東畑開人(2019)では、精神科デイケアとして「通過型デイケア」と「居場所型デイケア」の2つがあげられています。「通過型デイケア」とは「なんらかの理由で社会生活を送れなくなったメンバーさんが、デイケアのさまざまなプログラムに参加することで、回復し、社会復帰していく」デイケア。それに対して、「居場所型デイケア」は「必ずしも「通過」が前提とされない」デイケアで、「実際、多くのメンバーさんがデイケアを通過して社会復帰していくのではなく、デイケアに留まり続ける」。「居場所型デイケア」は「「いる」ことを目的として「いる」」。

東畑開人(2019)で取り上げられている沖縄県の「居場所型デイケア」では活動(計算ドリル、コーラス、塗り絵、バレー、ソフトボール、ドライブなど)、ミーティングの時間もあるが、スケジュールがかなりゆったり組まれており、多くの時間が自由時間になっている。臨床心理の専門家として着任したばかりの著者は、自由時間に「いる」ことのつらさを実感し、この時間をやり過ごすために無理に「する」ことを作り出していたということです。それは、「魔の自由時間」だったと。

「居るのはつらいよ。
何もしないで「ただ、いる、だけ」だと穀潰し系シロアリになってしまった気がしてしまう。それがつらいので、それから何か月ものあいだ、僕は何かをしているフリをすることにした。
・・・・・・
何か「する」ことがあると、「いる」が可能になる。
だから、カウンセリングの仕事があるとホッとした。実際に何かをしていたからだ。「おれはちゃんと働いているのだ」と思えた。だけど、働きはじめた当初の四月、五月は、カウンセリングの担当数も少なかったので、「する」ことが全然なかった。だから、カウンセリングの記録を書いているフリをして、カウンセリング室で隠れてボーっとしていることもあった。これはもうホンモノのシロアリ的穀潰しなので、やっぱりひどく気が滅入った。」(東畑開人, 2019)

「僕が机の木目を数え、ジュンコさんが調理の手伝いをしていたのと同じだ。環境に身をあずけることができないときに、僕らは何かを「する」ことで、偽りの自己をつくり出し、なんとかそこに「いる」ことを可能にしようとする。生き延びようとする。
僕らは誰かにずっぽり頼っているとき、依存しているときには、「本当の自己」でいられて、それができなくなると「偽りの自己」をつくり出す。だから「いる」がつらくなると、「する」を始める。
逆に言うならば、「いる」ためには、その場に慣れ、そこにいる人たちに安心して、身を委ねられないといけない。」(東畑開人, 2019)

「いる」のがつらいのは自分だけでなく、「「いる」のがつらくて、いろいろな声が聞こえてきてしまう人たち」が集まっている場所が「居場所型デイケア」だと。

ここで居場所と呼んでいるコミュニティカフェや地域の茶の間などの場所において、人々は「いる」のか、それとも、何かを「する」ことで過ごしているのか話をしたり、本を読んだり、クルミの殻むきをしたり、外の景色を眺めたり、コーヒーを飲んだりという光景が浮かび上がってきますが、このような人々は、何か「する」ことで居場所で過ごしていると捉えるべきか、あるいは、このような人々は「いる」と捉えてよいのか。

最初に、東畑開人(2019)を読んだ時、「何かを「する」ことで、偽りの自己をつくり出し、なんとかそこに「いる」ことを可能にしようとする」という表現から、「する」が否定的に書かれているような印象を持ちましたが、改めて読み直すと自由時間における「する」は必ずしも否定的に捉えられてはいない。例えば、「居場所型デイケア」における「いる」時間としての自由時間は、何か「する」ことが決められているわけではないが、話(世間話)をしたり、トランプなどのゲームをしたり「する」こと人もいると紹介されているように、「いる」と「する」は必ずしも排他的なものではない。「する」ことは「「いる」ことが前提」となっている」とも指摘されています。それでは、「いる」と「する」をどう捉えたらよいのか。

興味深い指摘を見つけました。東畑開人(2019)では、スタッフやメンバーが一緒になって興南南高校の甲子園の試合をテレビ観戦し、興南南高校が春夏連覇を成し遂げた後の様子が次のように描かれています。

「試合の後、三九円のコーラで乾杯した。「シマブクロ君、凄かったさ!」と興奮冷めやらぬ僕らはエースを褒めたたえ、感想戦に突入した。ワイワイガヤガヤと僕らはユンタク(沖縄方言で「おしゃべり」)しつづけた。
だけど、一段落ついて、ふと気がつくと、メンバーさんはいつものようにただ座ることに戻っていった。トモカさんは新聞を広げ、ヌシはタバコを吸っていた。医療事務ガールズは食器を洗い、看護師たちはカルテを書いていた。外から吹き込んでくる風が気持ちよかった。そして、僕もまた、何を「する」でもなく、くつろいでそこに座っていた。
そう、気づけば、そこにただ「いる」ことができるようになっていた。「いる」ことを脅かされなくなっていたのだ。「ただ、いる、だけ」でも、自分のことをシロアリだとは感じなくなっていた。興南南高校のおかげで、僕はよそ者じゃなくなっていたのだ。
「とりあえず座っている」とは、「一緒にいる」ということだったのだ。そのとき初めて、僕はディケアの凪の時間、魔の自由時間を居心地いいと感じた。自分がゆったりと、リラックスしていることを感じた。」(東畑開人, 2019)

「いる」とは、「する」ことがあらかじめ決められているわけでない状況において、それでも、周りの人と「一緒にいる」ことである。そうすると、「いる」と「する」という状況は、「参加する」と「居合わせる」の違いとして捉えることができるように思います。
「参加する」とは、あらかじめプログラムが決められており、そこにみなで一緒に参加する状況。「居場所型デイケア」における活動(計算ドリル、コーラス、塗り絵、バレー、ソフトボール、ドライブなど)、ミーティングなどの時間がこれにあたると言えそうです。これに対して、「居合わせる」とはそのようなプログラムがなく、何かを「する」人がいたり、何もしない人もいたりする。けれど、それぞれの人が別々ではなく「一緒にいる」状況。建築学者の鈴木毅は「居合わせる」を次のように説明しています。

「別に直接会話をするわけではないが、場所と時間を共有し、お互いどの様な人が居るかを認識しあっている状況。」(鈴木毅, 2004)


ここで思い浮かべるのが、新潟市の最初の「地域包括ケア推進モデルハウス」として開かれた「実家の茶の間・紫竹」。「実家の茶の間・紫竹」では、「大勢の中で、何もしなくても、一人でいても孤独感を味わうことがない“場”(究極の居心地の場)」(河田珪子, 2016)が目指されていますが、これは東畑開人(2019)で紹介されている「居場所型デイケア」の自由時間だけのような場所と言えるかもしれません。

そして、このような場所を実現するために、「実家の茶の間・紫竹」では数多くの配慮がなされています。例えば、囲碁、将棋、麻雀、オセロ、本、縫い物、折り紙、習字、絵の具など希望されたものは何でも揃えること。これは、「居合わせる」(いる)ことの手がかりになるような「する」ことを用意することだと言えます。
訪れた人は名前を書いた紙コップを1日使うことにされていますが、これは相手の名前を覚えたり、感染症を予防したりするためであり、同時に、「食器を洗わせて申し訳ない」という気持ちを抱かせないようにするためでもあります。これは、食器を洗うという「する」ができない人の「居合わせる」(いる)を脅かさないこと。
さらに、「その場にいない人の話をしない(ほめる事も含めて)」という茶の間の約束事を掲示したり、「こっち、こっち」と手招きして仲間同士で固まったり仲間同士で電話で待ち合わせをして集まったりしないようにされていますが、これらは、特定の人だけが固まってしまうことで、他の人が「いる」のを難しくし、結果として「居合わせる」状況を崩さないようにすることだと言えそうです。

「実家の茶の間・紫竹」における様々な配慮を考える上で、東畑開人(2019)におけるケアの成分、セラピーの成分という議論が参考になりそうです。
東畑開人(2019)によれば、「人が人に関わるとき、誰かを援助しようとするとき」には、配分は異なるが、常にケアの成分、セラピーの成分の両方があるとされ、ケアとセラピーの違いが次のように説明されています。

「ケアは傷つけない。ニーズを満たし、支え、依存を引き受ける。そうすることで、安全を確保し、生存を可能にする。平衡を取り戻し、日常を支える。

セラピーは傷つきに向き合う。ニーズの変更のために、介入し、自立を目指す。すると、人は非日常のなかで葛藤し、そして成長する。」(東畑開人, 2019)

これまで居場所におけるケアの成分に注目してきました。「実家の茶の間・紫竹」は「地域包括ケア推進モデルハウス」として開かれていますが、ここにもケアの表現が用いられています。
また、居場所と施設の違いを要求と機能の関係の違いとして、次のように捉えてきました。居場所では、機能は生じてくる要求への対応として備わってくる。これに対して施設では、機能は要求に先行し、実現すべきものとしてあらかじめ設定される。つまり、居場所と施設とでは要求と機能の関係が反転しているのだと。居場所においては、要求に対応することが大切にされる。これは、東畑開人(2019)に従えばケアの成分ということになります。
しかし、東畑開人(2019)を読み、居場所におけるセラピーの成分に目を向ける必要があるのではないかと考えました。もちろん、居場所で専門家によるセラピーが行われているという意味ではありません。「人が人に関わるとき、誰かを援助しようとするとき」の成分としてのセラピーです。

人々の要求に対応することが、居場所が施設と異なる大きな点である。しかし、「実家の茶の間・紫竹」において「居合わせる」を実現するための配慮を振り返ると、必ずしも、人々の要求にそのまま対応しているわけではないことに気づきます。

例えば、「その場にいない人の話をしない(ほめる事も含めて)」という茶の間の約束事を掲示すること、「こっち、こっち」と手招きして仲間同士で固まったり仲間同士で電話で待ち合わせをして集まったりしないようにすることは、人は往々にしてその場にいない人の噂話で盛り上がったり、仲間同士で固まったりすることがあるのを現していると言え、だからこそ、決まり事としてこれらが禁止されているということになります。そうすると、「実家の茶の間・紫竹」ではその場にいない人の話をしたい、仲間同士で固まったりしたいという要求が必ずしも受け入れられるわけではないことになる。

なぜ、「実家の茶の間・紫竹」でこうした配慮がされているかというと、「居合わせる」状況を実現するためですが、その背景には、地域における助け合いを実現するための「矩を越えない距離感」を大切にする関係を築くためという目的もある。「矩を越えない距離感」を大切にする関係とは、「会員のプライバシー」を守ること、「つねに相手の立場を思いやり、自分の考えを押しつけることをしない」こと、「ヘルプを利用するときも、提供するときも、“おたがいさま”の心を忘れないこと 気持ちのいい関係づくりに配慮すること」、「言葉づかいに気をつけること」(横川和夫, 2004)のように、気落ちよく助け合うための適切な距離を置いた関係のこと。「実家の茶の間・紫竹」は、人々の居場所であり、同時に、「矩を越えない距離感」を築く拠点でもあります。

「実家の茶の間・紫竹」では、初めて訪れた人には「できるだけ外回りに座ってもら」うという配慮もなされていますが、これは要求をずらすという側面から捉えることができそうです。

「初めて来た人は、できるだけ外回りに座ってもらおう。そうすると、あんなことも、こんなこともしてる姿が見えてきますね。すると、色んな人がいていいんだっていうメッセージが、もうそこへ飛んでいってるわけですね。そっから始まっていくんです。」

「今度、迎える側は全ての人が、その人が居てもいいよというメッセージを出していくという。表情とか振る舞いで。みんな、どの人が来ても『よう来たね、ここにゆっくりしてね、居てもいいんですよ、好きなように過ごしてね』っていうメッセージを、みんなして出していく。」

人々が「居合わせる」姿を見てもらうことで、初めて訪れた人に自分もこのように「居合わせる」(いる)ことができるのだ、言い換えれば、このように「居合わせる」(いる)ことを要求していいのだというように、要求の可能性を広げる。そして、「居合わせる」ことができるようになった人は、今度は、他の人にそのような要求を抱いてよいのだということを伝える側になっていく。

先に紹介した建築学者の鈴木毅は「『ただ居る』『団欒』などの、何をしていると明確に言いにくい行為」を含めた「人間がある場所に居る様子や人の居る風景を扱う枠組み」として「居方」(いかた)という概念を提示し、「他人がそこに居ることの意味」を次のように指摘しています。

「ある場所に人が居るだけで、その人と直接のコンタクトがなくても、彼を見守っている者には様々な情報・認識の枠組みが提供されるのである。中でも重要なことは、ある人は、(自分自身では直接みえない)自分がその場に居る様子を、たまたま隣りにいる他者の居方から教えてもらっているという点である。つまり、他者と環境の関係は、観察者自身の環境認識の重要な材料を提供しているのである・・・・・・。言ってみれば、『あなたがそこにそう居ることは、私にとっても意味があり、あなたの環境は、私にとっての環境の一部でもある』ということになる。」(鈴木毅, 2004)

他者が「そこにそう居る」ことは、たとえその他者と直接の関わりがなくても、その他者を「見守っている者には様々な情報・認識の枠組みが提供される」。つまり、「居合わせる」状況に自らが「居合わせる」ことで、要求がずらされることで、「居合わせる」ことの価値を教わり、さらに、他の人に「居合わせる」の価値を伝えていく・・・・・・というような、価値の連鎖が生じていく。


東畑開人(2019)で指摘されているように、「いる」ことの価値を語るのは難しい。特に、「効率性とか生産性を求める会計の声」に対して反論することは難しい。

ある居場所の運営に携わり続けてきた方から、次のような言葉を聞きました。

「今どこに行っても、立ちあげの目的は介護予防・健康寿命延伸のためと紹介されます。結果そうであることを願いますが、・・・・・・、参加される全ての方にとって日々の生きる喜びや楽しみ、自己実現の場であり、結果、地域に生きる安心につながることを願っています。そのために必要なことをプラスしながらやっていけたらと思っています。」

居場所を「介護予防・健康寿命延伸」という評価指標によって捉えることも、東畑開人(2019)で指摘されている「会計の声」への(意識的かどうかはわかりませんが)対応です。

「会計の声」を前にして、「居合わせる」(いる)ことの価値を伝えるのは難しい。しかし、先にみたように「居合わせる」の連鎖によって、少しずつ要求をずらすという、居場所におけるセラピーの成分が、地道であっても、こうした困難な状況を乗り越えることにつながっていくのかもしれません。


※「アフターコロナにおいて場所を考える」のバックナンバーはこちらをご覧ください。