『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

まちの居場所の継承に研究はどう向き合えるか

近年、各地に開かれている「まちの居場所」(コミュニティ・カフェ、地域の茶の間など)で課題とされているのが、場所をどうやって継承していくかということ。場所の継承には、運営するための空間や運営資金も重要ですが、最も重要なのは人にまつわること。
特に「まちの居場所」の開設者が代表者が、確固たる理念をもち、細やかな配慮をしながら運営している場合、「この人がいなくなったら、どうやって運営していくのか」という後継者の問題は切実なものとして認識されていると思います。

いくつかの「まちの居場所」を訪問し、場所の継承について聞いたところ、「子どもたちの誰かが継いでくれたらいいな」、「後継者というのは難しいのではないか」という答えがかえってきました。
どこの「まちの居場所」においても、継承は大きな問題。しかしこのことは、継承にまつわる課題が、簡単に乗り越えることのできない課題であることの現れ。それをストレートに「どうやって継承していきますか?」「後継者をどう考えていますか?」と問うことは、(知りたい内容ではあるが)問いの形式という意味では、「まちの居場所」の継承をめぐる現状においては適切な問いになっていない気がします。

もしかすると、「まちの居場所」の継承についての考え方自体から見直す必要があるのかもしれません。
その際、「まちの場所を継承するとは何を意味するのか?」、「まちの居場所を継承するにあたって、後継者は本当に必要なのか?」というように、そもそもの部分から考え直すというあり方もあると思います。

けれども、個人的にはそれとは別の可能性を考えています。今まで縁があり、いくつかの素晴らしい「まちの居場所」と出会うことができました。これらの具体的な場所に向き合いながら、「まちの居場所の継承において、研究という行為はどのような役割を担い得るのか?(についての研究)」の可能性です。
「まちの居場所」に関わる方々と、その場所の何を継承したいか? それをどうやって継承するか? などについて話を重ねながら、実際に何かかたちのあるものを行ったり、作ったりしてみる(その形は冊子なのか、展示なのか講演会なのか、ワークショップなのかはわかりませんが…)。そして、この一連のプロセス自体も記録し、考察の対象とする。まだ漠然としていますが、こうした「活動」ができれば、「まちの居場所」の継承をめぐる現状において、少しでも意味あることができるのではないかと思います。

ただし、研究とは目先の利益を追求するものではありません。有用性を過度に追求することも慎まねばなりません。ここで「活動」と書いたのは、これは果たして研究なのだろうかという思いも頭の片隅にあります。