大船渡市末崎町では、5月末から県営の災害公営住宅への入居が始まりました。
少し前までは建設工事の音があちこちから聞こえていましたが、最近ではその音も聞かれなくなってきました。静かになった地域をみて、震災前に戻ったようだという話を聞くことがあります。
仮設住宅では多くの支援者によって、様々な活動やイベントが行われてきました。5月21日にも和太鼓の演奏会が行われましたが、演奏会の後、末崎でイベントをするのもこれで終わりだと話している方がいました。
仮設住宅にまだお住まいの方はいますし、防潮堤などの工事は進められています。けれども、東日本大震災から5年が経過し、末崎町は被災地から、平常時へと戻りつつあると感じます。少なくとも、そのように感じている地域の方は多いと思います。
ただし、被災地から平常時へと戻ると言っても、良い面も、悪い面も含めて震災前に逆戻りすることはありません。特に、末崎町の人々と、外部の人々とのつながりが生まれたことは、確実に震災前とは異なる点。
そして、外部から末崎町へと関わらせてもらってきた1人として、これからも末崎町との関係を大切にできればと考えています。
少し前、復興にも関わる方からのメールに次のような言葉が書かれていました。「災害はつらいことですが、つらいからこそ、外部からの関わりはゆとりとか幸せを運んでいきたいものです」。
この言葉を読み、被災地から平常時へと移っていく地域に対しては、外部の者も関わり方のスタンスを変える必要が、つまり、被災地支援という関わり方を変えていく必要があるのだと思いました。
外部から「ゆとりとか幸せ」を運ぶのは容易ではありませんし、地域の文脈に沿わない「ゆとりとか幸せ」を押しつけてもいけません。それでは、外部から関わる者には何ができるのか? それは、地域の人々にとっては当たり前のこと過ぎて見過ごしてしまうような暮らしの豊かさを(再)発見し、共有していく役割ではないかと考えています。このことが、結果として「ゆとりとか幸せ」を醸成していくことにつながるのではないかと。
外部の者がある地域に対して、解決すべき課題の多い被災地と見なすのか、それとも、豊かな暮らしのある地域だと見なすのかは大きな違いです。前者のように見なすのであれば、いつまでたっても地域は被災地のままであり、支援する/されるという依存関係を生んでしまう可能性がある。地域にあった暮らしの豊かさも捉え損ねて可能性がある。
だからこそ、暮らしの豊かさを発見していける役割を担う必要があると思います。大切なのは、暮らしの豊かさとは日常の中にあるということ。「居場所ハウス」で日々過ごしていると、素敵だなと思える光景にたくさん出会います。ささやかかもしれませんが、そんな素敵な光景について、「こんな素敵なことがありました」、「こういうのはいいですよね」と伝えていくような役割を担うことができればと思います。
哲学者の鷲田清一氏は、大阪大学平成二十二年度卒業式の総長式辞において、次のような話をされています。
人にはこのように、だれかから見守られているということを意識することによってはじめて、庇護者から離れ、自分の行動をなしうるということがあるのです。そしていま、わたしたちが被災者の方々に対してできることは、この見守りつづけること、心を届けるということです。
*鷲田清一 赤坂憲雄『東北の震災と想像力』 講談社 2012年
東北に対しては震災の後、多くの被災地支援がなされてきました。多くの被災地支援にみな感謝されていますが、中には支援を受けることに慣れてしまったことに危機感を抱いている方もいます。
しかし、東北への被災地支援は確実に減っていきます。そういう時、東北が被災地から非常時へと移っていく際には、「見守りつづけること、心を届けるということ」が大切ではないかと感じました。
支援に来ていた人々が東北から引き上げていったり、東北を訪れる人々が少なくなったりする中で、たとえ遠くに離れていても、「いつも見ていますよ」、「いざとなったらいつでも行く用意がありますよ」と伝えることの意味。もちろん、伝える相手は一般的な人々ではなく、顔の見える具体的な人々であることが大切。だからこそ、震災後に築いてきた関係はこれからも重要なのだと思います。
さらに重要なことは、「いつも見ていますよ」、「いざとなったらいつでも行く用意がありますよ」と伝え続けることができるのは、被災地支援ではなく、その地域にある暮らしの豊かさや、そこで出会った人々に魅力を感じるからこそだと思います。