『わたしの居場所、このまちの。:制度の外側と内側から見る第三の場所』(水曜社, 2021年)のご案内

時間をあげること

哲学者の鷲田清一氏は『語りきれないこと:危機と傷みの哲学』(角川学芸出版 2012年)の中で、「時間をあげる」ことという話をされています。

「他人に時間を拘束されるのは、人間にとってもっとも苦痛なことです。そういう大事な時間を、「よかったらずっといてあげるけど」「何時ぐらいまでここにいるから、何か用があったら言ってね」「話がしたかったら、声をかけてね」と、相手にあげる。・・・・・・。相手が納得するまで、じぶんの時間をあげる。急かすこともないし、終わりが決められてもいない。わたしはほんとうのケアというのは、そんなふうに、「時間をあげる」ことではないかと思うんです。」
*鷲田清一『語りきれないこと』角川学芸出版 2012年

鷲田氏は、「時間をあげる」ことはプロのカウンセラーにはできない、限られた時間のなかで質問したり、アンケートで質問したりすることもできない。「聴くということ、時間をあげるということは、傍らで同じ時間のなかにいる人にしかできない」とも書いています。

「いわゆるプロのケアとはぜんぜん違います。プロのケアはたしかに時間を用意してくれるのですが、多くの場合、時間と時間帯が決まっています。それはあげるというよりは、サービスを提供する感じです。その限られた時間のなかで、わたしたちはじぶんをほどくことはできません。」

「「時間をあげる」ということ、それは、プロのカウンセラーにはむしろできないことです。わたしたちがボランティアに行ったとしても、限られた時間のなかで「どうですか?」といろんな質問をしても、むしろ嫌がられる。それこそ、傷口に塩をまぶすようなことにもなる。いまは忘れたいと思っていることを聞かれたり、アンケートでそのときどう思いましたかとやられたりすると苦痛です。聴くということ、時間をあげるということは、傍らで同じ時間のなかにいる人にしかできない。」

「「いつでもその人のそばにいられることが必要なら、何かを求めているなと思ったときや過度にへこんでいると見えたときに、何も押し付けがましいことを言わず、急かしもせずに、じぶんは別のことをしながら、なんとはなしにそばにいる、という場所があるといい。」
*鷲田清一『語りきれないこと』角川学芸出版 2012年

サービスを提供するのでも、急かして聞き出そうとするのでもなく、「時間をあげる」こと。それは「傍らで同じ時間のなかにいる人にしかできない」。だから「何も押し付けがましいことを言わず、急かしもせずに、じぶんは別のことをしながら、なんとはなしにそばにいる、という場所があるといい」と。

もう14年前のことになりますが、2015年2月に「まちの居場所」(コミュニティ・カフェ)の先駆的な取り組みをされている方々の座談会に同席させていただいたことがあります。「時間をあげる」ことという文章を読み、座談会での次の発言を思い出しました。

「話をしている間にいろいろな相談事が出てくるんですよ。それをあらためて相談事とするのではなくて、愚痴として聞いてくれる、それがいいんですよ。だから相手が一生懸命しゃべっている時は、うなずいて聞いて、「ふんふん」って相槌を打って、「うんそうや、うちもそうやったわ」と言ってあげれば、それで相手は安心する。解決策なんか言わなくても、相手が言いたいことだけ言えたなら、大体それで自分のなかで解決していくのです。」(千里ニュータウン「ひがしまち街角広場」の代表の発言)

「でも私は、医者でもないし、保健士でもないし、なんでもない普通の街に住むおばさんですけど、だからこそかえって、子どもも精神を病む人も安心するみたいですね。何を話してもいいと。」
*「座談会 公共の場の構築:住民の手による場所づくりの試みから見えてくるもの」・『建築雑誌』Vol.120 No.1533 2005年5月号

「居場所ハウス」のクルミむき、椿の実の殻とりの光景を思い浮かんできます。「居場所ハウス」ではその日の運営当番と来訪者がクルミむきをしたり、椿の実の殻とりをしたりする光景が見られます。みなが一緒のプログラムに参加するのでも、みなが面と向かって会話をするわけでもない。けれども、テーブルを囲んで手を動かしていると、様々な話が出てくる。手を動かしながら話を聞いている人もいる。

「まちの居場所」の価値の1つとして、「時間をあげる」ことの実現をあげてよいのではないかと思います。


鷲田氏の言う通り、「時間をあげる」ことがほんとうケアだとして、それは何の役に立つのか? それは何の機能があるのか? と問いたくなるかもしれません。もちろん、日々の暮らしの困り事を解決したり、孤立防止に役立ったり、生活支援や介護予防につながったりするのだろうと思います。
しかし最近、時々考えるのは、「まちの居場所」における体験を何らかの目的に収斂させて捉えることで、かえって、「まちの居場所」における体験を貧しいものにしてしまうのではないかということです。

考え方を転換する必要があるのかもしれません。
つまり、「時間をあげる」とは困り事の解決、孤立防止、生活支援や介護予防のための手段ではなく、それ自体に価値があるのだと。そして困り事の解決、孤立防止、生活支援や介護予防などは、「時間をあげる」に付随して、結果としてもたらされる効果に過ぎないのだと。
鷲田氏が「時間をあげる」と表現していることを含めて、「まちの居場所」における体験がもつ豊かさをきちんとすくいあげていく作業が大切ではないかと考えています。